人々を「動くバイキン」扱いするムードが「忖度マスク」を生む

このコロナ騒動は、人々を「動くバイキン」「国民総バイオテロリスト」化するすさまじい騒動であるが、「私はバイキンでもテロリストでもなく、まっとうな人間である」と考えている人は、この騒動からとっとと一抜けしていい。

その象徴はマスクである。これを着けている人間が都会では99.7%(体感値)のため、騒動がまったく終わっていないように感じるのだ。一度、田舎の漁港などに行ってみるといい。マスク率はせいぜい20%ほどである。

現在、私は佐賀県唐津市在住だが、東京、博多、名古屋といった大都市に行くと、唐津とはまるで別世界のように感じる。私は公共交通機関や商業施設などマスク着用が要求される場では着けるが、要求されない場では一切着けない。とにかく汗かきなので、着けていると本当に汗がダラダラと流れて止まらなくなってしまうし、呼吸が苦しくなってしまうのだ。そしてなにより「他人の言うことに納得もしないまま従う、家畜のような存在」に成り下がってしまうのがイヤなのである。

それに、都会に暮らす人々も少なからず気づいているはずだ。「密な状況でもない屋外であれば、マスクを着ける必要なんてないのでは」と。でも「常にマスクを着けていないと非常識扱いされ、断罪するような視線を向けられてしまうかもしれない」「マスクをしていない人間を見ると不快に感じる人もいるようだから、ひとまずマスクは常時着用しておくか」などと無駄に忖度して、腹落ちもしていないのにマスクを着け続けてしまう。まさに“忖度マスク”である。

他人はあなたの幸福のことなど考えられない

こうした前提を踏まえたうえで「真に納得できるまで、自分自身で考えること」の重要性について述べたいわけだが、絶対に忘れてはならない、大事な視点はコレだ。

所詮、他人は自分のメリットのことしか考えていない。
あなたにとっての最大のメリットとは何なのか、他人は考えることができない。

要は「最終的に、人は自分のことしか考えられない生き物である」ということだ。どんなにキレイごとを並べたところで、これは真理であり、そう簡単には覆らない。だからこそ、人は自分の頭で最後まで考え抜くことを放棄せず、判断は自分で下さなければならないのである。これこそ、現代を生きる“自律した大人”の基本的な作法だと私は捉えている。