日本人が好む「協調性」の残念さ

政府が言うから、知事が言うから、役所が言うから、メディアが言うから、余計なことは考えず、とにかく従う――これらは、コロナ騒動以降の日本に蔓延している非常に残念な風潮だ。とはいえ、同調圧力に簡単に屈したり、何かしらの権威に付き従って思考停止したりする特性は、もともと日本人が備えていたものだった。それらは時に「協調性」「和を以て貴しとなす」などと表現を変え、むしろ美徳として褒めそやされる場面も多かった。

協調性は、たとえば就職活動の際にも最大の武器として持ち出されてきた。2000年代中盤あたりから、学生は自分の強みとして「協調性がある」とアピールするのがブームとなっていたように感じる。

面接やOB・OG訪問などで就活生が語る協調性エピソードは、おおむねこんなレベルだ。

「私は所属サークルで副部長をやっていたのですが、学園祭で何をするかについて大きくもめたことがありました。出店で売るのは焼きそばがいいか、たい焼きがいいか、ということについてメンバー間で対立が起きたのです。そのとき、私は両方の意見を丁寧に聞き、それぞれの気持ちを考慮しながら議論を進め、最終的には両派が妥結する形で“トッピングや味付けを各種用意したたこ焼き屋”という解決方法を提案。それが採用され、出店は成功裏に終わりました!」

まあ、学生にとっては渾身の武勇伝であり、一種の成功体験なのかもしれないが、この程度の逸話で協調性をアピールされても聞かされた大人は苦笑するしかない。

矢印の形に集まる人々
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就職活動でやたらと「たとえ話」をする学生たち

そもそも仕事においては協調性など、あまり重要ではないのである。そりゃ、ないよりはあったほうが少しはマシかもしれないが、それよりも現場でまず重要視されるのは「結果を出す可能性が高い人間かどうか」だ。まったく誰が言い始めたのか知らないが、学生たちのあいだで「協調性をアピールすれば就活で内定が取れる」という根拠不明な神話が語られるようになり、それが蔓延しただけなのだろう。

この「協調性アピールは面接でウケる!」という神話に加えて、「私は○○な人間です」と自分の特徴を何かにたとえる話法も就活生にたいへん流行した。私も会社員時代、面接に上げる学生を選抜するリクルーターをやったことがあるが、大多数がたとえ話をしてきた。こんな調子だ。

「私という人間をわかりやすく表現するなら『リベロ』です。私は大学のサッカーサークルで、長らくこのポジションを務めてきました。リベロは、守備を中心としつつも、攻撃の起点にもなる重要なポジションです。私はサッカーチームにおけるリベロの経験を通じて、守備でも攻撃でも絶好機を見極められる幅広い視野を身に付けました。こうした経験は、御社(私の古巣・広告代理店の博報堂)の営業という立場に就いたとき、クライアントに対しても、クリエイティブに対しても気配りが求められるような、物事を俯瞰的に見なければならない職種で非常に役立つと思います」

いや、それじゃお前のポジションがフォワードだったら、他の仕事を選ぶの? 攻撃中心だったプレイヤーは広告会社の営業に向いていないの? などとツッコミを入れたくなるような受け答えなのだが、とにかく当時は「私は納豆です」やら「自分はエアコンのような人間だと思います」などと自身を何かにたとえる学生が面談で続出した。個人的には「またかよ」「どうでもいいわ」とスルーしたいところだったのだが、それでは話が進まないので「え、どういうことですか?」と尋ねると、待ってましたとばかりに「粘りがある」「暑かろうと寒かろうと、どんな状況でも対応できる」などと程度の低い大喜利のような回答を嬉々として口にするのである。