26歳で見合い結婚し、夫とその両親と2世帯住宅で暮らしていた女性は22年間の結婚生活に終止符を打った。舅・姑から数々の虐待を受けていたが夫は見て見ぬフリ。実家に戻り平穏な生活が訪れるかと思いきや、今度は母親が認知症に。現在66歳となった女性が激動の半生を振り返る——(前編/全2回)。
問題のある若い女性のシルエット
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この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、未婚者や、配偶者と離婚や死別した人、また兄弟姉妹がいても介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。

26歳で結婚し、舅・姑に数々の虐待を受けてきた66歳の激動半生

「ゴミ袋がたくさんあるがどうするつもりや? ゴミだけ置いていくつもりか?」

関西在住の66歳の白石玲子さん(仮名・既婚)。今から18年前の2003年1月、22年間の結婚生活に終止符を打つ決意をして実家に戻っていたある夜、義父から電話がかかってきた。

「いいえ。昼間そちらを出るときにお義父さんに説明したとおり、明日引っ越し荷物と一緒に処分します。ゴミを置いていくようなことはしません」

当時48歳の白石さんは、そばにいた母親がびっくりするくらい冷淡な口調で言った。

母親が勧める見合いで26歳のときに結婚し、やがて義両親と同居した。義父と夫がお金を出し合い、2世帯住宅を建てたのがそのきっかけだが、この義両親がひどかった。

「この家の家長は俺だ!」と家の中でも外でも威張り散らす義父と、「私も姑にひどく虐められた」と言いながら白石さんをひどく虐める義母。そして22年間、一度も白石さんを庇おうとしなかった夫。

白石さんが初めて義両親の愚痴を夫にこぼしたとき、「俺の親の悪口を言うことは許さない」と言って夫は1カ月も口を聞かなかった。そればかりか、白石さんが作った料理をゴミ箱に捨て、自分で作って食べていた。

それでも白石さんは、「自分の都合で息子から父親を奪ってはいけない」と我慢し続けた。

しかし、2000年4月に息子が大学に進学し、下宿を始めると、家の中は義両親と夫だけ。夫も義両親も、これまで一度たりとも白石さんが外で働くことを許さなかったが、息子のいない空間では息が詰まる。白石さんは、何度も必死に頼み込み、やっとパートに出ることを許された。

外で働き始めた白石さんは、“生きている実感”を取り戻す。そしてもう二度と“籠の鳥”には戻れなくなった。2002年11月、白石さんは思い切って、夫と義両親に離婚を切り出した。

すると義父はこう言った。

「俺たちのせいでお前たちの仲が悪くなるのなら、もう2世帯同居はやめよう。家を建てる時にお前が出した金は返すから出て行け。これ以上迷惑をかけられたくない」

すると夫は言った。

「俺に金を返すために親父に借金させるわけにはいかない」。

夫は一度も自分をかばわず、義両親の側に立った

夫は白石さんと離婚する道を選んだのだ。

2003年1月、白石さんは義父から電話を受けた翌早朝に起き、残りの私物を取りに向かう。年末年始に帰省していた息子が下宿先に戻った翌日に引越しを決めたため、息子はいない。味方のいない家に向かうのはひどく気が重かった。

1時間ほどして到着すると、2台分の駐車スペースがあるカーポートの真ん中に、義父の車が停められていた。仕方なく白石さんは家の前に路駐する。

荷造りやゴミ出しが終わると、義父に呼ばれた。義父は紙とペンを出し、「婚姻時の姓を名乗りません」「子どもの親権は放棄します」「結婚時に持ってきた荷物は余さずに引き取りました」と書けと言うので、白石さんは言われた通りに書く。

最後に白石さんは、義父に離婚届への記名押印を頼むと、義父は渋々応じた。

白石さんはその足で市役所に行き、離婚届と転出届を提出。清々した気持ちで友だちとお茶をし、実家へ向かった。