世界的奏者の言葉

片山さんは1982年、徳島県徳島市の「飲み屋街のど真ん中」で生まれた。父親はそこでクラシック音楽を流すバーを経営していて、母親はクラシックのピアニスト。片山さんも幼い頃から店に出入りしていて、「親以外の大人の最初の記憶が、店の酔っぱらい」と笑う。

眉山からの徳島のシティービュー
写真=iStock.com/gyro
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最初に学校に行かなくなったのは、小学5年生の頃。学校で自分のある行動を教師から注意された時に、なぜダメなのかと問うと、「そういう口答えするのがあかん。ダメなものはダメだ」と言われた。悪いことをしたつもりがなかった片山さんは、その日の夜、父親のバーに来ていたお客さんに、学校であったことを話した。

「ダメだという理由を説明しないのは、きっとその人もなぜダメなのかわからないんだ。その先生は、君が自由にふるまうことを恐れてるんじゃないかな。音楽でも、自由にやられると怖い時がある。だけど、もしかしたらすごくいい演奏になるかもしれないから、練習の時はできるだけ自由にやってもらうようにしている」

通訳を介してそう答えてくれたのは、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の世界的に著名なフルート奏者ウォルフガング・シュルツさん(2013年没)。当時、父親のバーはクラシック好きには知られた存在で、海外の楽団も四国公演があるとよく訪れたのだ。

シュルツさんと同じように、夜のバーで出会う大人たちは、片山さんの質問に、自分の言葉で答えてくれた。それが嬉しくて、いろいろな話をするようになった。一方で、学校に行くと教師から煙たがられた。間もなく、不登校になった。修学旅行も、卒業式も出なかった。

中学1年生で“中退”

中学生になると、気が変わってもう一度学校に通い始めたが、「これ(この勉強)って大人になってから使うんですか?」などなど教師が答えに詰まる質問を連発していると、そのうちに、ほとんどの教師から疎まれるようになった。朝、学校に行くと「今日はテストが近いから、お願いだから帰ってほしい」と頼まれたこともあった。それならと、中学1年生の1学期で学校に行くのをやめた。

小学校の時から、母親には「学校に行かんのなら、自分で仕事を見つけないといかん」と言われていたので、入ったこともない近所の美容院に行き、「すいません、働きたいんです」と頼み込んだ。「いくつなん?」と言われたので、「18です」と答えると、「うそでしょ」と笑われたので、18歳だと言い張った。そこで学校に行っていない事情を話すと、時給500円で雇ってくれた。それから週に数回、美容院に通って仕事を覚えた。

ちょうどその頃、雑誌でナイキのエアマックスシリーズが人気になり、プレミア価格で取引されていることを知った。片山さんは自分で働いて貯めた10万円と、祖母から借りた10万円でエアマックスを何足も仕入れ、一番高値になったと判断したタイミングで地元のいくつかの中学校を回り高値で売りさばいた。祖母にお金を返した後も、30万円以上が手元に残った。

自転車のお客さんと白いバンの荷台の商品と片山さん
撮影=川内イオ
お客さんの注文で、リンゴを袋に詰める片山さん。