旧幕府を挑発して、戊辰戦争を起こす

1849年12月、薩摩藩でお由羅(ゆら)騒動と呼ばれるお家騒動が起きます。次期藩主に斉彬を推す一派と、異母弟の島津久光(ひさみつ)を推す一派が対立し、斉彬派の人々が腹を切らされたり、流刑や蟄居(ちっきょ)といった処分を受けました。でも、お由羅騒動を煽ったのは、実は斉彬だったのではないか、と私は見ています。

西郷隆盛 
テロ組織「薩摩御用盗」の黒幕●徳川慶喜による「大政奉還」の後、旧幕府を挑発して戦争を起こすため、江戸市中にてテロ活動を展開。(時事通信フォト=写真)

そもそもお由羅騒動の前に、斉彬は自らの藩主就任に反対していた家老・調所(ずしょ)笑左衛門(広郷)を、藩が琉球との間で行っていた密貿易を幕府に密告することで自殺に追い込んでいます。騒動は結局、徳川幕府の老中・阿部正弘の助けもあり、斉興の隠居で決着しました。

それもこれも、一刻も早く自らが薩摩藩主になるためでした。それは私利私欲ではなく、「日本の国を救うためにはこれしかない」と、斉彬が信じていたからです。

西郷隆盛も同じようなことをやっています。1867年、「討幕の密勅」〈実はこれも、岩倉具視(ともみ)らによる偽造文書です〉が薩摩に下された翌日、徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還を宣言しました。当時の朝廷の経済力は10万石、対して徳川幕府は公称800万石、実質400万石。このままでは、新政府ができても徳川家が実権を握ることは避けられません。

新しい体制をつくるには、戦争をして旧幕府を打倒する必要がありました。そこで西郷は、配下の薩摩藩士らに密命を与え、江戸市中で放火や殺人、強盗などのテロ活動(薩摩御用盗事件)を展開。ついには市中の取り締まりを担当していた庄内藩の屯所(とんしょ)に鉄砲まで撃ち込み、薩摩藩邸焼き討ち事件を誘発させます。これが戊辰(ぼしん)戦争の引き金となり、最終的には明治新政府の誕生につながるわけです。

鳥羽・伏見の戦いでひるがえったという錦の御旗。あれも公家の岩倉具視が中心となり、大久保利通と長州の品川弥二郎がでっちあげたものです。「見たことはないが、たぶんこうだろう」と、買ってきた西陣織の布で作ったのです。

そんな代物でも、錦の御旗が上がったという情報で旧幕府軍は戦意を喪失。態勢を立て直そうと向かった淀藩からは入城を拒否され、近くを固めていた津藩からも、賊軍扱いされて大砲を撃たれてしまいます。これは大変だと大坂城に帰れば、慶喜はすでに逃げ出して江戸に向かっている。みんな錦の御旗という「ウソ」にやられたわけです。