ウソも方便、と人はよく言います。2018年の大河ドラマ『西郷(せご)どん』は、薩摩藩の西郷隆盛を主人公としています。西郷をはじめとする明治維新の立役者たちも、そうした「方便としてのウソ」をいくつもつきました。正々堂々を旨とするはずの彼らが、なぜウソをついたのか。あるいは、つかねばならなかったのでしょうか――。

日本の植民地化を、防ぐための決意

島津斉彬 
密貿易の「密告」で反対派を一掃自らの藩主就任を妨害していた家老・調所笑左衛門を自害に、藩主であった父・斉興を隠居に追い込む。(近現代PL/AFLO=写真)

 

今のビジネスパーソンの世代は、「ペリー来航が引き金となって、明治維新への動きが始まった」と習ったはずです。でも、今の歴史学のコンセンサスでは、そこから13年前、1840年に始まったアヘン戦争を明治維新の出発点と考えます。

当時の清(しん)の人口は3億5000万人、陸軍の兵力は88万人。一方、当時のイギリスの人口は1300万人、投入した戦力は述べ2万人にすぎません。それなのになぜ、清はイギリスに敗れたのでしょうか。

日本人で、その答えに最初にたどり着いた1人が、薩摩藩主になる前の世子・島津斉彬(なりあきら)でした。彼は清の敗北の原因が、封建制という社会体制そのものにあると気付くのです。清では省の境を越えると、もう同じ「国」ではありませんでした。天津がイギリス軍に攻められても、他の省はどこも助けに行かない。88万の兵力は、バラバラだったのです。

三百諸侯が治める日本も、状況は全く同じでした。封建制を改め、中央集権的な国民国家をつくる以外に、日本の植民地化を防ぐ道はないと、斉彬は気付いたのです。

ところが幕藩体制のもとでは、島津家のような外様の大名には発言権がない。ましてや当時の斉彬は、父である藩主、島津斉興(なりおき)の反対で、藩主にすらなれずにいました。

そこでウソをつくわけです。