【田原】それで、漫画家は諦めた。それからどうしましたか。

【仲】賞に落選し続けるなかで、世の中には大量のボツ原稿があることに気づきました。日本の漫画家志望者はレベルが高いから、ボツ原稿だって十分にクオリティが高い。それらをまとめて翻訳して海外に見せたらおもしろいかなと思って、漫画投稿サイト「Magajin」をつくりました。結局、着想とは少しずれてイラストを投稿するサイトになりましたが。

田原総一朗●1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。本連載を収録した『起業家のように考える。』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【田原】投稿してもらって、見るのにお金がかかる?

【仲】いえ、そのサイトは広告モデルで稼いでいました。正直、ショボかったけど、1年くらい続けましたね。

【田原】その後、フェイスブックジャパンの初期メンバーになったそうですね。経緯を教えてください。

【仲】「Magajin」を知ってもらおうと、あるIT系のカンファレンスに参加しました。そこに偶然いたのが、フェイスブックの人。「Magajin」はフェイスブックに広告を出してユーザーを集めていたので、クーポンでももらえないかと話しかけたら仲良くなって、うちで働かないかと。

【田原】当時、日本法人には何人いたんですか。

【仲】日本人はヤフージャパンから来た方が2人、シリコンバレーから20代のエンジニアが3人、そこに私が雑用係として加わって、計6人です。

【田原】雑用係?

【仲】何でもやりました。ガラケーのサイトのディレクションのような仕事から、お客さんへのお茶出し、ゴミ出しのシールを買いにいくとか、とにかく何でもやっていました。

【田原】フェイスブックってどうしてあんなに成功したんだろう?

【仲】理由はいろいろありますが、もっとも大きいのは、ユーザーのことを考えていたからじゃないでしょうか。ユーザーの体験を損なわないように、広告を出すことをギリギリまで遅らせた。ユーザーに嫌な思いをさせたくないという信念が、支持につながったと思います。