「パーティやバーベキューが苦手」という心性

「乗れない人」は、皆が楽しそうに盛り上がっている場面に本当は入りたい気持ちがありつつも、自分なんかが入ってつまらないことを言ってしまい、場の空気が凍るようなことだけは絶対に避けたい──。とかく、そんなことを考えているものだ。そういった人だから、バーベキューやクリスマスパーティなど、知らない人が大勢集まるような会が苦手なのである。

たとえば、学生時代の友人に誘われて、パーティに参加。総勢30人くらいの参加者の大半は、誘ってくれた友人の会社の同僚と、その恋人や配偶者だったとしよう。そんな集まりに、やや場違いな自分が入ってしまった。辛うじて3人ほど知人もいたから、最初のうちは彼らとポツポツしゃべって過ごす。しかし、その3人も他の参加者たちと交流を始め、いつしか自分は8人くらいの名前も知らぬ人々の輪のなかで半笑いを浮かべ、ただひたすらにビールを飲んで頷いているだけ。頻繁にビールを取りに行ったり、トイレに行ったりして間をつなぐも、気持ちは時間が経つにつれてどんどん惨めになっていく。

その一方、会場の各所では「ドッ!」と大笑いが発生し、ついには踊りだす人まで出てくる。いよいよ居たたまれない気持ちになり、退席しようか……と腰を上げそうになったところで現れるのが、清楚な黒髪の女性。「私、なんだか人に酔っちゃった……お名前教えてくださる?」「山田太郎と申します。僕もなかなかこうした場にはなじみづらくてね」「だったら二人でしゃべりましょうよ。私、橘綾乃と申します」──なんて展開になることは、ほぼない。

そして山田太郎君は「あぁ、最初からこうなることは分かっていたんだから、テキトーな用があることにして来なければよかった……」と駅までの道すがら考えるのである。山田は終了直後のにぎわいが続くパーティ会場を真っ先に飛び出て、誰からも姿を追われたり、声をかけたりすることもないまま駅へ猛進。同じころ、酔って楽し気な他の参加者たちは、店の外の路上で名残惜しそうにダベっていたり、2次会の相談などをしていたりするのだろう。

スタッフ的な立場で「惨めな気持ち」を回避

先述した「ハッシュタグ祭り」などについても、これと同様の感覚がある。かく言う私も「乗れない」側の人間だし、バーベキューもクリスマスパーティも苦手だ。もし参加するのであれば、企画側を手伝う人間として、受付で会費の徴収でも担当していたい。それだったら手持ち無沙汰になることもないし、誰ともしゃべらずとも、惨めな気持ちを抱かないで済む。「オレは仕事があるんだからな、ドヤ!」という感覚で過ごせるのだ。

また“企画側っぽい人”でいると、会場の雰囲気になじめず寂寥感を感じた参加者にとってのしゃべり相手にもなれる。よく、外国人観光客が駅の警備員や、工事現場の警備員に道を尋ねているのを見かけるが、あれは「一般の人には聞きづらいけど、たまたまその場にいる公的な立場っぽい人にはなんとなく話しかけやすい」という意思が働いているからだろう。それと同様に、「幹事団」や受付担当は、パーティで疎外感を味わってしまいがちな人にとっては、ある種の駆け込み寺的存在になれるのだ。