学生の頃に出会い、何百回も読んでは自分を奮い立たせてきた、いわば「戦いのための聖書」だ。

起業家としてビジネスをしていると、後発の自分たちはこんなに不利なんだということを思い知らされることがある。今あるルールとは既存の勝者がつくっているものだからだ。だから、それも突破していかなければならない。そのたびに夜も眠れぬ日が続く。圧倒的努力をしてなお、恐怖と戦う日々が続く。そんなとき、吉本隆明の詩を読むと、戦い切ろうという気になってくるのである。

吉本隆明の詩は決然とした意志に満ちている。彼はアカデミシャンではなく、市井の思想家だ。著作はすべて自分の生き方、事情から生まれたものだ。つまり、生きるということにおいて、血肉化されているということである。書かなければ救われない、生きていけないというレベルで書かれたものだ。だから胸に迫ってくる。

例えば、こういうフレーズがある。「ぼくを気やすい隣人とかんがえている働き人よ、ぼくはきみたちに近親憎悪を感じているのだ、ぼくは秩序の敵であるとおなじにきみたちの敵だ、きみたちはぼくの抗争にうすら嗤(わら)いをむくい、疲労したもの腰でドラム罐(かん)をころがしている、きみたちの家庭でぼくは馬鹿の標本になり、ピンで留められる、ぼくはきみたちの標本箱のなかで死ぬわけにはいかない、ぼくは同胞のあいだで苦しい孤立をつづける」(ルビは編集部)

これは絶対的孤独の中で一人も味方がいないということだ。わりの合わない困窮を受け止めている人々のために、社会の仕組みが変だ、経済の構造が変だ、と命を懸けて戦っているのに、バカの標本としてピンでとめられてしまう。だから僕は秩序の敵であると同時に君たちの敵だと言っているのである。

この吉本隆明詩集を暗誦しながら、私は、不可能を可能にしようと生きてきた。この詩集は、私の中では紛れもない本質的なアジテーションである。私にとって、これほど血肉化されたものはない。自分の生き方=ビジネスであり続けた私にとって、勉強とは、自分の血を湧き立たせるコンテンツを探す旅でもあった。吉本隆明の詩集は何百回と読み返しても、そのたびに燦然と輝いている。