◇皮肉【ひにく】
仏教では宗祖らの信念・思想・行為などすべてのことを「皮肉骨髄(ひにくこつずい)」という。達磨大師は弟子に対して「おまえはわしの皮を得ている、髄を得ている」などと悟りの浅い深いを定め、最も深く悟った弟子に法を伝えた。そこから、表面だけを指す非難を皮肉と呼ぶようになったのだろう。ときには骨髄に達する鋭い主張で周囲を沸かせたいものだ。
◇油断【ゆだん】
『涅槃教(ねはんきょう)』の中の故事が出典。昔ある王が一人の家来に油を満たした壺を持って歩かせ、「もし一滴でもこぼしたら汝の命を断つ」と厳命し、不注意は最大の敵と戒めた。ここから、注意を怠ることを油断というようになった。
わずかの不注意が大失敗を招くことは往々にしてある。ここぞという勝負時は、命を断たれかねないというほどの緊張感をもって仕事に臨みたい。
◇我慢【がまん】
東日本大震災で、日本語の「我慢」は世界中に広まった。我慢とは困難に耐えるという日本人の美徳であるとして“GAMAN”は海外メディアでも紹介された。このように我慢は一般に、辛抱すること、堪え忍ぶことを指し、いい意味に用いられる。
ところが、仏教語としての我慢はあまりいい意味では使われない。仏教では、自分の中心に我があるという考えから、我をたのんで自らを高くし、他をあなどることだと説明している。
仏教では、そのようなおごりたかぶる心を7つ挙げて「七慢」と称する。我慢はその第四番目で、「我あり、我が所有ありと執着して心をして高挙(思い上がった状態)にさせる」ことをいう。その上に第六の邪慢や第七の増上慢があり、いずれも我意を張るさまであったり、強情であったりと、好ましくない性向、ふるまいである。一般的な熟語でも、高慢、傲慢、慢心などはよくない意味で用いられている。
では、なぜ我慢はいい意味に転じたのか。おそらくは、我慢という我をよりどころにする心から、我が強い→負けん気が強い→頑張る→辛抱するというように変化して現在の我慢になったのだろう。美徳として世界で称えられるまでに、我慢は堪え抜いたのである。