数ある経典の中でも、『般若心経』は日本人にもっとも親しまれているお経の1つでしょう。葬式や法事に参列すればお坊さんが読経する姿を目にするし、四国八十八カ所にお参りするお遍路さんは、到着の証しとして詠んでいます。自分ではとくに意識していなくても、日本人のほとんどがどこかで触れているはずです。

あらためて言うまでもありませんが、『般若心経』はもともと日本のものではありません。7世紀、『西遊記』の三蔵法師として有名な僧、玄奘はインドからたくさんのお経を持ち帰り、残りの人生をその漢訳にささげました。訳した中には、大乗仏教の中心経典である『大般若波羅蜜多経』600巻余や、そのエッセンスを抽出した『般若心経』も含まれていました。それを遣唐使で中国に渡ったお坊さんたちが日本に持ち帰り、以来1200年、脈々と詠まれてきたのです。

ブッダは『般若心経』に究極の智慧を詰めた

作家・作詞作曲家 
新井 満氏

ただ、『般若心経』は古くからたくさんの日本人に親しまれてきたわりに、その意味を理解している人が少ない。じつに不思議ですよね。

仏教関係者の中には、「お経の意味をわからずともいい。尊いものだから、唱えるだけでご利益がある」という人もいます。でも、それはどうでしょうか。お経とは、ブッダの言葉なのです。お経の意味を知らなくてもいいというのは、ブッダがお経に託したメッセージを無視してもいいということ。それではあまりに失礼じゃないですか。

では、ブッダは『般若心経』で何を伝えようとしたのか。般若心経の「般若」は古代インド語の「パーニャ」、智慧という意味です。「心経」は、エッセンス。つまりブッダは、智慧の神髄、究極の智慧をこのお経の中に詰め込んだのです。

では、その智慧とは何か。私が読み物として『般若心経』を初めて読んだのは大学生のころでした。ただ、そのときは智慧の正体がよくわかりませんでした。

解説書を開けば、『般若心経』の智慧とは「空哲学」であると書いてあります。しかし、「空」とは何かという肝心の部分がよくわからない。書いてあっても表層的な説明に終始していて、心から納得はできないのです。