全世界の人が見守るノルウェーか。それとも危篤の母が待つ新潟か。

私は迷った挙げ句、ノルウェー行きの飛行機をキャンセルして新幹線に飛び乗りました。自分に与えられた職責や当時の風潮を考えても、これはかなり思い切った決断だったと思います。<会社を辞めることになってもいいのか?>と自問し、<かまわない>と自答したのです。

結果的には間に合わず、母の死に目には会えませんでした。あのときの気持ちは何と言っていいのか。大好きだった母が亡くなったという事実を受け止めることができず、茫然としていたと思います。

そのまま新潟で母の遺品を整理していたら、タンスから意外なものが見つかりました。文庫本の『般若心経』です。母は昔から熱心に墓参りをする人でしたが、墓前でお経をあげる姿は一度も見たことがない。表紙がきれいで読んだ形跡はなかったので、母はお守りのつもりでタンスに入れていたのかもしれません。

気になってひさしぶりに『般若心経』をめくると、「色即是空」の文字が目に飛び込んできました。そのときフッと肩の力が抜けたのです。大切な母を亡くしたばかりで、その事実を受け止められずにもがいている。そんな自分に、ブッダが「起きてしまったことは、どんなに悲しくとも受け入れなさい」と語りかけてくるようでした。

母が亡くなって3日後、オリンピックの閉会式が行われました。私は祈るような気持ちでテレビ中継を見ていました。バルーンがうまく浮くかどうかは風まかせ。もとより遠く日本にいる私には、どうすることもできません。ただ、焦りや不安はありませんでした。「やることはすべてやったのだから、先のことを悩んでも仕方がない」という心境で、むしろすがすがしい気持ちで画面に見入っていました。母の「死」に対するこだわりを捨てたときに、これから起こる「生」へのこだわりをも捨てることができたのでしょう。まさしく「空即是色」です。

ちなみにバルーンは奇跡的に浮かび上がり、デモンストレーションは大成功。ノルウェーに行かなかった私が肩身の狭い思いをせずに済んだことをつけくわえておきます。