首が落ちるまで3回も斬りつけられた最期

そして慶応4年(1868年)4月末、小栗が権田村に移住して1カ月も経たない頃、周辺の高崎藩・安中あんなか藩・吉井藩から「新政府軍が小栗の命を狙っている」という不穏な情報が伝わってきました。

小栗自身はそれでも「屋敷に残る」という苦渋の決断を下しましたが、母・くに子、妻・道子(通子)、養女・鉞子よきこの3人には、再起を期して会津に向かって逃げるよう指示しました。

これは新政府による小栗追討令が出る直前のタイミングでした。

小栗の家族が上州を農民の扮装で脱出した4月末は、4月11日に江戸城が新政府軍に明け渡された直後で、旧幕軍の徹底抗戦派が北関東や北陸へと散っていった時期です。

新政府軍は小栗にも「誅殺ちゅうさつ」を前提とした追討令を出しました。

小栗は無抵抗で捕らえられましたが、翌日には裁判らしい裁判もうけられぬまま、養子の忠道や家臣らとともに烏川の河原で斬首されたのです。

しかも処刑は不慣れな役人の手で行なわれたので、首が落ちるまでに小栗は3回も斬りつけられたのでした(※)。

潔白にもかかわらず、理不尽な暴力によって命を奪われた「小栗の殿様の足袋たびの裏の白さが、今も瞼まぶたにありありと焼き付いて離れない」という、とある村民による回想は悲劇そのものです。

※出典:マイケル・ワート『明治維新の敗者たち』(みすず書房)

タバコの火を頼りに確認した小栗の痘痕

斬首後の胴体は小栗を慕う権田村の村民たちが、東善寺とうぜんじ(群馬県高崎市)まで戸板に乗せて運び、同寺に土葬したそうですが、首は中島三左衛門なかじまさんざえもん、塚本房吉つかもとふさよしなど小栗を慕う者たちの手で奪還されました。

堀江宏樹『幕末維新 不適切にもほどがある話』(三笠書房)
堀江宏樹『幕末維新 不適切にもほどがある話』(三笠書房)

中島、塚本は法輪寺ほうりんじ(群馬県館林市)の墓地を盗掘し、小栗父子と思われる首桶を発見すると、暗闇の中、タバコの火だけを頼りに中身の確認を急ぎました。

首桶の中は焼酎あるいは「酒精(=エタノール)」で満たされており、小栗の顔には天然痘の痘痕あばたがハッキリとうかがえました。この痘痕で、小栗本人だという確認が取れると彼らは首を抱きしめ、号泣したそうです。

そして、土葬されていた小栗父子の胴体と、持ち帰ってきた「首を継ぎ『ご無念でございましょうが、これで一先ひとまず安らかにお眠りください』と(一同は)泣いた」のでした。

欧米諸国に学び、近代的な法治国家を目指していた男が、最も前近代的な「私刑(リンチ)」で消された皮肉と矛盾は、幕末という混沌の時代を象徴しています。

検索時にプレジデントオンラインに関連する記事が表示されます

【関連記事】
40年近く仕えた家康を見捨て、秀吉に降る…「裏切り者」と呼ばれる徳川家の元重臣・石川数正と一族のその後
地方衰退の一番の原因は「人口減少」ではない…山口の超富裕層が「住民税43億円」をまるっと抱えて移住した理由
「秀吉と一緒になるのがイヤ」ではない…お市の方が柴田勝家との自害を選んだ"現代人には理解できない"理由
NHK大河ではとても放送できない…宣教師に「獣より劣ったもの」と書かれた豊臣秀吉のおぞましき性欲
異民族に3000人の皇族が連れ去られ、収容所送りに…「戦利品」になった女性皇族たちがたどった悲惨な結末