なぜ新撰組は浅葱色の羽織を着るようになったのか。歴史エッセイストの堀江宏樹さんは「時代劇の新選組といえば浅葱色の羽織を一年中着用しているが、発案者の芹沢鴨の趣味全開なだけに、実際は彼らの多くから嫌われていた」という――。
※本稿は、堀江宏樹『幕末維新 不適切にもほどがある話』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
京都到着の瞬間に大紛糾した浪士組
坂本龍馬が勝海舟の弟子となって2カ月が経った頃、つまり文久3年(1863年)2月、後に「新選組」と呼ばれることになる男たちが江戸を発ち京都に向かおうとしていました。
この時の彼らの名称は「浪士組」。元・庄内藩士の浪士・清河八郎が結成させた14代将軍・徳川家茂の護衛を目的とした約250名からなる集団でした。
しかし15日間の旅を終えて京都に到着した瞬間、清河が「われわれは家茂公ではなく天皇を守るための軍である!」と言いだしたので大紛糾。
この時、ブチ切れたのが近藤勇でした。近藤は多摩の農民の生まれながら「天然理心流」という剣術の流派を掲げた道場「試衛館」に養子に入り、26歳の時に、「不美人は貞淑」――「ブスは身持ちが堅い」という驚愕の理由で、顔に痘痕のある女性・つねと結婚。
「たま」という一人娘も授かっていた30歳の近藤にとって、浪士組へ参加したのは人生を懸けた挑戦だったのです。
しかも近藤は道場の仲間たちを引き連れていました。同行者には土方歳三(29歳)、沖田総司(22歳)、永倉新八(25歳)、原田左之助(24歳)、山南敬助(31歳)なども含まれましたが、京都で清河から告げられたのは、このまま浪士組に参加していても武士としての出世は望めないという事実だったのです。今でいうなら、優良誤認詐欺ですね。

