波乱の予感しかないスタート

結局、近藤は自分以外の既婚者の門弟たちを多摩にUターンさせ、清河八郎にも「活動を共にすることはできない」とハッキリ言って、キレ気味に送り出されました。

こうして彼らは浪士組から分派した、あくまで幕府のために働く浪士集団で、壬生に駐屯所があるから「壬生浪士組」――通称「みぶろ」となったのです。しかしその数、わずかに17名。

3月10日には京都守護職として治安取締を担当していた会津あいづ藩主・松平容保まつだいらかたもりに活動許可を嘆願する書類を提出しました。それでも隊員数はあまり増えず、24名……。

しかも早くも15日後の3月25日、最初の犠牲者が出ました。後に近藤が「殿内義雄とのうちよしおと申す仁(略)四条大橋しじょうおおはし上にて打ち果たしそうろう」と手紙に書いているので、手にかけたのは近藤とその一派であると考えたほうがよさそうです。

こうして9名もの脱落者が一気に発生し、残ったのは15人。なのに派閥は2つ、リーダーは2名もいました。内乱の予感しかありません。

とくに問題だったのは、近藤にとっては目の上のたんこぶの芹沢鴨です。芹沢の身分は元・水戸みと藩士と高いのですが、大酒飲みで酔っ払っていない時間のほうが短く、何か気に入らないことがあれば、300匁(約1キロ)もある「尽忠報国じんちゅうほうこくの士芹沢鴨」と書かれた鉄扇を振り上げ、殴ってくるのです。

恐喝マネーで「ダサい夏服」を爆買い

どうしようもない彼らが転がり込んだのが、壬生村の八木家の離れでした。のちには厚かましくも離れどころか母屋に上がり込み、好き放題に暮らすようになっていた芹沢、そして近藤たちでしたが……。

この年は旧暦4月(現在の5月)から気温が高く、芹沢の発案で、夏物の着物を作ることになりました。

そして資金を貸してくれそうな(そして踏み倒せそうな)大坂の商家を選び出し、暴力沙汰で得た金で作られたのが、新選組と聞けば後世の誰もがイメージする浅葱あさぎ色の羽織だったのです。

時代劇の新選組では有名な「浅葱色の羽織」
時代劇の新選組では有名な「浅葱色の羽織」〔写真=Michael Reeve(MykReeve)/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons〕

芝居で見る忠臣蔵の装束を意識して大金を叩いて作ったのですが、芹沢の趣味全開なだけの「あまりいい服ではありませんでしたので、自然、誰も着なくなりました。もちろん近藤だの土方だのという人たちは着ませんでした(八木為三郎やぎためさぶろうの証言)」(※)。

時代劇の新選組といえば例の羽織を一年中着用していますが、そもそも夏服ですし、実際は彼らの多くから嫌われていたため、全員が着用した珍しい機会が、この年の4月21日でした。

※出典:子母澤寛『新選組遺聞』(中央公論新社)