すれ違う者からガン見され
この日、家茂公が勝海舟の案内で摂海(現在の大阪湾)沿岸の防衛状況を視察するというので、目立つために壬生浪士組もアレを着たわけですね。
会津藩公用局の広沢富次郎によると「浪士、時に一様の外套を整し(略)形貌はなはだしく」、あまりに芝居じみているので「逢う者みな目を傾かせ(=すれ違う者からガン見され)」たそうですが、本当にそれだけで終わってしまいました。
その後、たった15人ではまともな仕事はできないと会津藩からいわれたので、大坂で21人をリクルート。正式に芹沢鴨と近藤勇の二人を「局長」とする組織化も行なわれたのですが、芹沢の奇行は激しくなるばかり。
敵味方ふくめて3人の死者と14人の負傷者を出しながら相撲取りと大乱闘。他にもよくわからない騒動を起こしているうち、壬生浪士たちが日の目を見る前に家茂公は江戸に戻ってしまいました。
芹沢鴨の凄惨な最期
京都にいる理由を失った壬生浪士たちの焦りを誰よりも体現したのが荒れる一方の芹沢で、飲んでいた店の対応が気に入らないと大暴れ。生糸を扱う大和屋という商家が金を貸さないと怒って、大砲を撃ち込んだことまでありました。
「われわれは会津公(=松平容保)のお抱えである!」と宣言してから蛮行に及ぶため、庶民は怯えますし、風評被害に困り果てた会津藩はひそかに近藤、土方、沖田、山南、原田の5人を呼び出し、芹沢の「処置」を命じたといいます(西村兼文『新撰組始末記』)。
「処置」が暗殺の婉曲表現だとピンときた近藤は、京都随一の遊郭・角屋の宴会で酔わせた芹沢が愛人のお梅連れで寝入ったところを土方、沖田、山南、原田の4人に襲わせました。
しかし芹沢は飛び起きて反撃。雨が降る暗い夜、灯りもないのに芹沢の刀の一撃は沖田の鼻下を切り裂きました。ところがそこに土方が芹沢の肩口を深く斬り込み、倒れ込んだ芹沢はこの4人から滅多切りにされて死亡。
妾のお梅も口封じに殺され、芹沢の派閥も壊滅しました。近藤は自分たちが殺した芹沢のために、素知らぬ顔で立派な葬儀を営んでやったのですが、皮肉にもほどがあります。
家茂将軍の警護を目的に京都に来て約半年、実際にやれたことといえば、犯罪と粛清だけの近藤たちでしたが、芹沢の始末を喜んだ松平容保公によって、かねて会津藩で組織された精鋭部隊の名である「新選組」の名乗りを許されることになったのでした。
近藤たちの「本物の武士」になる旅路は仲間の屍を踏み越えながら始まったのです。
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