幕末の幕臣・小栗忠順はどんな最期を迎えたのか。歴史エッセイストの堀江宏樹さんは「小栗が領地の上州・権田村へ移住すると、『家康の埋蔵金を持ち出して隠しており、反乱の拠点を作っている』と悪意ある情報が資金難の新政府軍に伝えられた。小栗を生贄として差し出すことで、慶喜に反逆の意思はないと示そうとした人物があらぬ噂を立てたと考えられる」という――。
※本稿は、堀江宏樹『幕末維新 不適切にもほどがある話』(三笠書房)の一部を再編集したものです。
顔面蒼白の重臣と再開戦をにおわせる慶喜
慶応4年(1868年)1月12日の朝、江戸に帰還した慶喜を出迎えた江戸城の重臣たちの困惑を勝海舟がリアルな言葉で残しています。
「詳説を問わむとすれども、諸官唯(顔面)青色、互に目を以てし、敢て口を開く者無し」――何があったかを慶喜に問い詰めたかったが、聞いてはいけない空気が充満。役人たちは顔面蒼白で、目配せしながら沈黙するしかありませんでした。
この時、勝海舟が戦って勝利することを諦めたと考えるのは正しいようですが、慶喜は違いました。
慶喜は再開戦をにおわせまくり、12日の時点で「事情によっては、再び慶喜が上方に向かう予定である」と、江戸城から諸藩にも通達されたのです。
また「翌十三日より、文武の諸士(身分の)高下を問はず(江戸城に)出仕して、詰掛け詰掛け」、「和戦の議論」も戦わされました。敗北したまま講和を目指すべきか、今度こそ全力で新政府軍と戦って勝利すべきかの熱論が交わされたのです。
そして議論は主戦派に有利――つまり「兵と資金が有利な旧幕軍が今度こそ勝つ!」とする方向に傾いていたのでした。

