「降伏こそが最善」勝海舟が大出世した日
小栗がクビになったのを知った主戦派たちは、一様におとなしくなってしまいました。そして改めてスポットライトを浴びたのが、「降伏こそが最善」と説き続けた勝海舟だったのです。勝も、こんな慶喜を大将に担ぎ上げて戦えるとは考えていなかったのでしょう。
そんな勝の本音を知ってか知らずか、慶喜は長らく閑職に据え置かれていた勝を同月17日に「海軍奉行並」――つまり海軍の「ナンバー2」として、さらに23日には「軍事総裁大夫」――陸軍の実質的な最高責任者としても大出世させたのです。
勝が大抜擢された江戸城に小栗はもういませんでした。すでに小栗の身は、領地の上州(現在の群馬県)・権田村にあったからです。
小栗の生涯で70回以上にも及ぶといわれる離職・解雇トラブルの最後の一件がこれでしたが、もはや(旧)幕府になんの未練もなくなっていたのでしょう。小栗は歩兵奉行職をクビになってから早くも4日後には江戸を出て、領地の上州・権田村へ移住する決意を固めています。
それにともない、小栗は自分の先祖たちの菩提寺である普門院になけなしの50両を送金し、先祖伝来の武具を預けました。また、上州・権田村では土地の若者たちの無知を憂い、自らの手で教育を始めます。
小栗は生贄に差し出されたのか
しかし、この「大身の旗本・小栗による大量の荷物の運び込み」、寺への「50両」、さらに「教育」による現地の若者の「組織化」といった一連の動きが、新政府軍や周辺住民を刺激してしまったのです。
資金難の新政府軍に、これらの情報は「元・勘定奉行の小栗が江戸城の金蔵から徳川家康の埋蔵金を持ち出して隠しており、反乱の拠点を作っている」という悪意ある尾ひれがついた状態で伝えられました。
新政府軍がこれを信じ込んでしまったのは、その情報の出処が、いまや徳川政権の中枢に居座った勝海舟だったからという不穏な説があります。
これは勝が主戦派として知られた小栗を生贄として差し出すことで、徳川慶喜の「恭順」が本物であり、もはや反逆の意思はないと示すものだったという説で、奇妙な説得力があると感じるのは筆者だけでしょうか。

