死を考えるほど追い詰められた先に…

その心構えが試される場面は、京セラが開発した人工膝関節をめぐって訪れた。

医師たちに早く使わせてほしいと請われ、認可を受ける前に販売する形になった。これが報道で批判を浴びる。本人は、不本意な思いを抱えて悩んだと語っているが、約30年側近を務めた大田嘉仁の記録はもっと踏み込んでいる。当時の稲盛は死さえ考えるほど追い詰められていたという。

悩んだ稲盛が訪ねたのが、京都・臨済宗妙心寺派円福寺の西片擔雪にしかたたんせつ老師だった。老師は、稲盛を全く慰めなかった。

「災難は、過去に積んだ業が現れて消えていくときの姿である。その程度の災難で業が落ちるのなら、むしろお祝いをしなければいけない」

助けを求めたら、めでたいと言われたのである。ふつうなら面食らう。だが稲盛は、原因があって結果があるという因果の理屈を、研究者らしく筋が通っていると納得した。この理屈なら耐えていけると受け止めた(これは気持ちの立て直しの話で、認可前販売の是非は別である)。

災難そのものは消せないが、受け止め方は変えられる――。

人生を3つにわける

ふだんは大勢の社員に生き方を説く人が、自分の悩みを人に打ち明け、ものの見方を教えてもらう。会社では吐けない弱音を、老師の前では吐けたのだろう。批判に傷つき、立ち直り方を人に教わる。この時の稲盛は、すべてを見通す「神様」ではなく、一人の人間である。そして、老師との縁が、のちに晩年の大きな決断へつながっていく。

1997年、稲盛は65歳で、西片老師のもとで得度した。得度とは、戒(いましめ)を授かって仏門に入る儀式である。悩みを聞いてくれた人の弟子になったのだ。

2002年に西片老師が管長となった臨済宗妙心寺派の本山・妙心寺
2002年に西片老師が管長となった臨済宗妙心寺派の本山・妙心寺(写真=Tomomarusan/GFDL/Wikimedia Commons)

思いつきの出家ではない。稲盛はヨガの聖者の言葉から、人生を三つに分けて考えていた。最初の20年で社会に出る準備をし、次の40年で世のために働いて自分を磨き、残りの20年で死の準備をする。仕事が忙しくて得度は予定より5年遅れたというから、律儀なものだ。もっとも、仏門に入って仕事を捨てたわけでもなく、十数年後には日本航空の再建を引き受けている。