豊臣大坂城と現在の大阪城は全く別

なぜかといえば、ある時代における「誤解」をもとに建てられたこの建築を評価することは、歴史への「誤解」を定着させることになるからである。加えて、「大阪城天守閣」が先駆けとなった天守再建の手法は、とても模範的とはいえないのに、なぜ評価するのか理解できない。

では、どんな「誤解」なのか。なぜ再建の手法として模範的ではないのか。それを理解するために、最初に「大阪城天守閣」の成り立ちを説いておきたい。

文化審議会が「大阪城天守閣」を、「『大坂夏の陣図屏風』や文書を精査した」建築だと評価した旨を前述した。しかし、現在見ることができる大阪城は、豊臣大坂城を土中に埋めてまったくあたらしく築かれている。すなわち徳川の城なのだが、豊臣大坂城を描いた図屏風を精査して建てた、という点で矛盾がある。これが「誤解」と呼ぶ所以である

豊臣氏の滅亡後、大坂城が徳川家によって大改築されたことは、明治時代にも知られていたが、秀吉が築いた城がどのくらい継承されているのか、明らかでなかった。秀吉が築いた城は、完全に土中に埋もれているとわかったのは、戦後になってからだった。

昭和30年代、まず石垣に、江戸時代になって工事を負担した大名たちが残した刻印が数多くみつかり、現在の石垣を徳川家が再建したことがはっきりした。加えて、本丸の地中から古い様式で積まれた石垣が見つかり、その位置などが、期せずして発見された豊臣時代の『大坂城本丸図』と重なり、豊臣大坂城がすっかり埋められていることがはっきりした。

しかし、このたび重文になる「大阪城天守閣」が建てられたのは、これらのことがわかる前だった。

豊臣と徳川が混ざった摩訶不思議な建物

建築計画が持ち上がったのは昭和2年(1927)のこと。大阪市では昭和天皇の即位を記念して、大坂城公園の設置と天守再建が計画され、それを市民からの寄付でまかなう方針が決められた。予定どおりに150万円の寄付金が集まって計画は実行に移されたが、大阪市の方針は「秀吉の天守を復興させたい」というものだった。

とはいえ、いまの大坂城にある天守台の石垣は、徳川家が再築したもので、地下に埋まる豊臣大坂城のものとは場所が違えば、表面積も豊臣時代の約2倍ある。しかし、上に記したように、当時はこの石垣を徳川が築いたということも、豊臣大坂城の天守台とは規模も構造もまるで違うということも、はっきりしていなかった。

そのあたりが曖昧なまま、京都府の技師で京都帝大教授だった天野俊一の指導のもと、大阪市土木局は『大坂夏の陣図屏風』を参考に、豊臣時代のより小さな天守の姿を、徳川による大きな天守台の上に再現した。

「大坂夏の陣図屏風」右隻(部分)
「大坂夏の陣図屏風」右隻(部分)(写真=National Geographic/PD-Japan/Wikimedia Commons)

しかし、豊臣大坂城の天守と徳川大坂城の天守には、なにひとつ共通点はなかった。むしろ徳川家は、地上から豊臣色を抹殺するために大坂城もゼロから築き直したのであり、あえて豊臣大坂城の特徴は徹底的に消し去っていた。だから、結果として、摩訶不思議な建物が出現することになったのである。