「川端康成に頼めばいいじゃん」
いまのご時世なら、セクハラと糾弾されておかしくない。だが言われた加賀は、そのとき一片のいやらしさも感じなかった。それは“とっても清澄なる官能”であり、同じ感覚は映画『陽炎座』(1981年公開)で松田優作と共演したときにも味わったと加賀は後に回顧している。
その後加賀まりこと川端康成は、年齢差を超えた友人同士のようになった。川端ほどの大作家ともなれば気軽に原稿依頼をするなど誰もが二の足を踏むところだが、加賀は『オンディーヌ』の公演パンフレットへの寄稿も「川端康成に頼めばいいじゃん。アタシ、頼んどくわよ。友達だから」といった調子だった。
世間の常識にとらわれないのは、川端康成との関係だけでなく、加賀まりこの人生すべてに当てはまる。恋愛に関しても、相手との年齢差や立場の違い、既婚か否かということなどよりも、まず優先したのが自分の素直な気持ちだった。
27歳のとき、妊娠。加賀は相手と正式に結婚することなく、未婚のまま出産することを決意した。交際相手とはすでに別れていたのである。それゆえ、相手の名前を公表する必要はないと判断した。認知することを求めるつもりもなかった。
世間が大騒ぎした「未婚の母」スキャンダル
しかし、まだ1970年代前半である。「未婚の母」に対する風当たりは、加賀の想像を絶するものだった。未婚のまま出産するというその事実だけで、あたかも罪人のように見られ、反社会的なことをしたように扱われる。そこに「相手は誰か」というゴシップ的な興味が加わり、当然のようにマスコミは書き立てた。それでも加賀は、「誰に迷惑かけるじゃなし、私が私の子を産むの」と堂々としていた。
そして出産。だが生まれた娘は、わずか7時間で短い命を終えた。数日後その事実を知らされた加賀は、病室で声をあげて泣いたという。そしてマスコミの目を避けるため、親友だった作詞家の安井かずみが住んでいたアパートの空室を借りてもらい、そこに身を寄せた。
数カ月後仕事に復帰した際の映画の撮影初日には、ここぞとばかりにマスコミは詰めかけた。だがそれを見た監督の森谷司郎が、「キミらは神聖な映画の現場を何だと思ってる! 彼女は今、1人の女優としてここで仕事をしてるんだッ! 下司なことをするなッ!」と一喝した。
当時「未婚の母」になることを自ら選んだ加賀まりこの生きかたは時代の常識を超えたものであり、それゆえ世間の激しい好奇の目にさらされた。そのなかで、幼い頃から身近だった映画の世界が加賀を守ってくれたわけである。

