茶々は「別妻」ではなく「正妻」
戦国時代において、正妻に別妻も加えた「妻」は「妾」と明確に区別されていた。妾はあくまでも非公式な関係の女性だったのに対し、妻は別妻であっても、家同士の合意にもとづき婚姻手続きを経て迎えられた。
茶々の場合、柴田勝家のもとから救出されてのち、もはや身寄りがなく、嫁ぎ先を見つけるほかに生きる道が失われていた。そんなとき秀吉から妻になるように誘われ、妹の初と江の嫁ぎ先もあてがってほしいと条件を出し、誘いを受けたと考えられている。
秀吉の別妻としては、茶々のほか、茶々の従姉でもある「松の丸殿」こと京極龍子、前田利家の娘の「加賀殿」こと前田摩阿、織田信長の娘の「三の丸殿」らが知られる。百姓から天下人に上り詰めた秀吉は、権力の正統性を示すためにも、織田家をはじめ高貴な血筋の女性を別妻として迎え入れたと考えられる。むろん、茶々も織田家の血筋である。
そんななかで茶々だけは、寧々と並ぶ事実上の正妻になったようだ。太田牛一は『太閤さま軍記のうち』で、茶々のことを正妻の敬称である「北の御方」と記している。秀吉自身も茶々を、公卿などの正妻の敬称である「簾中」と呼んだという記録がある。
ともかく、このように正妻や別妻のほか妾まで入れると、まさに無数の女性に囲まれていた秀吉である。「豊臣兄弟!」の秀長のように、実子をもうけるために女性を身近に置くように助言する者など、いたはずもない。
秀吉がブチ切れした落書き事件
ただし、どれだけ周りに女性がいても、秀吉には実子が誕生しなかった。世間もまたそのことを認識しており、秀吉はそれを指摘されるのを嫌がった。
天正16年(1588)10月、茶々が妊娠したとわかると、おそらく世間の雑音から守るために、茶々を聚楽第(京都市上京区)から茨木城(大阪府茨木市)に移動させ、淀城(京都市伏見区)が完成すると、さらにそこに移して鶴松を出産させた。
その間、秀吉がとくに嫌った「雑音」が天正17年(1589)2月25日夜、何者かの手で聚楽第の表門に張られた落首だった。歌の一つは「大仏のくどくもあれや鑓かたなくぎかすがいは子だからめぐむ」(『武功夜話』)。当時、秀吉は京都東山に大仏殿を造るべく鑓(槍)や刀を没収していたが、そのことと、子種がないはずの秀吉に子供ができたことをかけ、妊娠は大仏(大仏殿の釘やかすがい)の功徳だと嘲笑していた。
激怒した秀吉は、聚楽第の番をしていた17人を処刑。まず鼻を削ぎ、日を置いて耳を切り落としたうえで、2日にわたって逆さ磔にするという極めて残忍なもので、その後、さらに100名を超える関係者が処刑されたという。

