巣鴨の墓は芥川と背中合わせ
どうしたわけか、谷崎潤一郎のお墓は二つ存在する。
ひとつは京都市左京区鹿ケ谷、風雅な庭をそなえる法然院の一角。「寂」の一文字を刻んだ墓石がその目印となっている。もうひとつは東京都豊島区に所在する慈眼寺の近く、古木の桜が咲き乱れる染井霊園の中に立つ。
日蓮宗の寺院・慈眼寺は、山手線の巣鴨駅から歩いて15分ほどのところにひっそりと佇む。この寺は染井霊園に隣接しており、本堂と墓地は細い路地を挟んで配置されている。華やかさはないものの、そこは意外にも名だたる面々の眠る場所である。
墓地の入り口には年季の入った案内板が設置されていて、芥川龍之介や司馬江漢、斎藤鶴磯など、後世に語り継がれる人物の名前が連なる。谷崎先生もまたこの地に永眠している。偶然か、あるいは意図的なのか、谷崎と芥川の墓は背中合わせになるように作られているのだ。小説の筋をめぐって、激しい文学論争を交わした二人が、死んでもなお互いに背を向け続けているその構造は、なんとも興味深い。
芥川を常にライバル視
〈話らしい話のない小説〉こそが一番だと主張する芥川に対して、〈筋の面白さ〉を重視する谷崎。二人の白熱した議論が専門雑誌などで報じられ、文学界を大いに騒がせたものだった。
芥川はその論争の途中で亡くなったけれど、谷崎はそれ以降も自分の意見を唱え続けて、一人で決着をつけようとした。雑誌『改造』にて連載された「饒舌錄」という文章の中には、「故人の死に方は矢張り筋のない小說であつた」とまでライバルのことを揶揄している。そのことから、谷崎先生は勝ちにこだわる性格の持ち主だっただろうと想像できる。
「小說と云ふものはもともと民衆に面白い話をして聞かせるのである」と堅く信じていた谷崎先生は、その信念を作品の隅々にまで貫いたのは言うまでもない。そればかりか、自らの人生そのものも、大衆の目を引く材料として差し出すことすら厭わなかった。盟友との絶交、大っぴらな不倫沙汰、度重なる離婚、小説のモデル問題や連載の打ち切りや炎上。それらのエピソードの一つひとつには目を見張るものがある。
なかでもとりわけ有名なのが、いわゆる「小田原事件」だ。

