周囲の女性を小説のモデルにする困ったおじさん

『鴨東奇譚』はとある京都女性をモデルに書かれるはずだった。その女性は呉服問屋の老舗の娘で、華やかな男性遍歴の持ち主だったという。作品のコンセプトとしては、彼女の多彩な恋愛歴を通じて、京都の独特の雰囲気を描き出すというものだったらしいが、狭い街なだけに男どもの面が安易に割れてしまう恐れがあり、連載が中断へ。

渡辺千萬子によると、それも事実だが、モデルの女性が当時付き合っていた一人の男性は特に、千萬子の娘――つまり谷崎の近い親戚――を誘拐するとか、訴えるとか、ガチで脅迫してきたそうだ。また、モデルの女性本人も、号泣しながら谷崎のところに押しかけたりして大騒ぎとなり、その結果先生はすっかり興醒めして、書く気をなくしたという。

モデルの女性は「細雪のように綺麗に書いてほしかった」と嘆いていたそうだが、なんとも切ない。封印されてしまったその女性像がもし世に放たれていたら、どんなものになっていたのだろうと、考えれば考えるほど妄想が膨らむ。

ついでにもう少し付け加えると、この逸話を語る渡辺千萬子という人は、松子とその最初の夫の息子の妻であり、谷崎にとって義理の娘に限りなく近い存在だった。そんな千萬子は『瘋癲ふうてん老人日記』に登場する颯子のモデルとされており、件の小説もまた、息子の嫁に対して性欲を感じる老人の話である……。

谷崎の周りにいた女性陣の多くは、こうして文学史に姿をしのばせているわけだが、本人たちはどんな気持ちで作品を読んでいたのかしら。本当に困ったおじさんだこと。

谷崎潤一郎の墓
谷崎潤一郎の墓(画像=mariemon/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)

大胆すぎる性描写で知られる『鍵』の思わぬ反響

『鴨東奇譚』の連載が中断となった谷崎は、精を出して再び『鍵』の執筆に取りかかり、その連載は5月号から12月号にわたって完成している。しかし、これにも火がついた。

大胆な性描写で知られている『鍵』は初回から大きな反響を呼んだ。ちょうどそのとき、売春防止法案が国会で議論の対象となっており、その文脈において本作の可否について激しい討論が行われたのだ。

『鍵』は売春そのものを主題にしているわけではないが、性の定義や規模が問い直されていたその時期に、露骨な性描写や老年男性の秘められた欲望を描いているがゆえに、極めてタイムリーに響き、世間の注目を集めた。そしてそれは――当然‼︎――読者の好奇心を強く掻き立てるものでもあった。

『鍵』の反響を受けて、『週刊朝日』は1956年4月に「ワイセツと文学の間――谷崎潤一郎氏の『鍵』をめぐって」というタイトルの特集を組んだ。また、連載完結直後に発売された単行本がベストセラーとなり、掲載誌の『中央公論』は翌年の1月号にて、「さまざまの『鍵』論」という特集を出して、さらに話題性を高めた。