大坂城に囲われた300人の妾

大坂城(大阪市中央区)を本拠にしてからの秀吉の「女狂い」は、生前の信長が心配したレベルをはるかに超越していた。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、『日本史』に次のように記している。

〈聞くところによれば、関白は大坂城内だけで、日本全国の諸侯貴顕の娘たちを三百名も側室としてかかえており、それ以外に第一夫人と認められる人がいる。彼女はきわめて思慮深く稀有の素質を備えており、他の婦人たちはこの第一夫人に従い、関白はあまりにも大勢の女性をかかえているので彼女と生活を営まないにしても、彼女を奥方と認めている。また婦人たちの多くの者は、その高貴さなり血統において彼女より優れているが、それでも彼女を崇めている〉(松田毅一・川崎桃太訳、以下同)

〈第一夫人〉とは、すでに「北政所」と呼ばれていたであろう寧々のことだ。秀吉は彼女を〈奥方と認めている〉が、一方で、〈三百名〉もの〈側室〉(妾のことだろう)を侍らせ、フロイスの書き方だと、妾たちは寧々が統括していたように読める。自分の「女狂い」のために寧々がどんな感情をいだくか、という考えは、この独裁者にとって完全に埒外だったと思われる。

大坂夏の陣図屏風右隻(大阪城天守閣所蔵)に描かれている天正期大坂城天守
大坂夏の陣図屏風右隻(大阪城天守閣所蔵)に描かれている天正期大坂城天守(写真=National Geographic/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

美しい娘を探し出しては収奪した

では、多数の女性たちはどのようにして集められたのか。『日本史』にはこんな記述もある。

〈彼(註・秀吉)がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的の一つとしたのは見目麗しい乙女を探し出すことであった。彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者とてはなく、彼は、国王や君侯、貴族、平民の娘たちをば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した〉

人権という概念がなかったにしても、女性の尊厳も、家族の心情も、あまりに軽んじられている。もう一つ、『日本史』から引用する。

〈彼は政庁内に大身たちの若い娘たちを三百名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また別の多数の娘たちを置いていた〉

秀吉は天正15年(1587)に宣教師の国外退去を命じるなど、カトリックを迫害する方向に転じたので、宣教師たちは秀吉に悪感情をいだいて文章を記しており、記述は信用できないと見る研究者もいる。だが、その考えに筆者は同意できない。宣教師は自身が命を賭して西洋から極東に布教に訪れており、彼らは、自分たちに続く後進たちが極東の地で布教する際の助けになるように、いわば道に迷わないように記録を書き記した。だから、大げさに記すことはあっても、布教活動の障害になりかねないウソは、書かなかったと考えられる。

さて、フロイスの書いた〈三百名〉の一人が茶々だったのかといえば、そうではない。茶々は秀吉の「妾」ではなく「妻」であった。