近代の葬儀、陵の原点は孝明天皇

前近代に受け継がれた“薄葬の伝統”が大きく転換したのは幕末だった。ペリーの来航などによる深刻な危機感から、ナショナリズムが高揚した時代だ。明治天皇の父親だった孝明天皇のご葬儀と陵の造営にあたり、大きな変革があった(武田秀章氏『維新期天皇祭祀の研究』平成8年[1996年]、大明堂)。

後光明天皇の時から「土葬」が採用されながらも、それ以前に長年にわたって火葬が行われてきたことから、形式上は火葬に見立てた作法を踏襲していた。それを廃して、名実ともに火葬に切り替えた。

また長く仏教式のご葬儀が営まれ、南北朝時代の後光厳天皇から500年近くも京都の泉涌寺せんにゅうじが葬場とされていた。ところが孝明天皇のご葬儀(慶応3年[1867年]1月27日、28日)では、同寺に立ち寄るものの仏教的要素は空洞化し、鳥居をかまえた陵前での神道式の祭典が中心となった。

京都市、泉涌寺
京都市、泉涌寺(写真=663highland/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons

陵自体も、久しく石塔形式など簡素化していたが、三段築造の円丘墳が築かれた(明治天皇からは「上円下方」形式)。

孝明天皇のご葬儀や陵などの変革の歴史的意義は、「奈良・平安期以来の朝廷の『薄葬』の伝統の否定」(武田氏前出)とされている。

「手厚い葬儀」へ

その後、孝明天皇の正妻だった英照皇太后のご葬儀を経て、明治天皇のご葬儀で大がかりな近代のご葬儀の標準形が整った(大正元年[1912年]9月13〜15日)。

青山練兵場(今の明治神宮外苑あたり)に設けられた葬場の敷地は10万坪、76棟もの建物が仮設され、建坪だけで約4000坪という広さだった。当時は今の人口の半分以下の5000万人ほどだったのに葬列は約2万人、長さは5キロにも及んだ。

ひつぎ(霊柩)を乗せたお車が5頭の牛にひかれた。皇居(宮城きゅうじょう)を出発した先頭が2時間あまりをかけて青山の葬場に到着した頃、最後尾はまだ皇居を出ていなかったという。

明治天皇 大喪の礼。伏見桃山御陵で。1912年9月13日撮影
明治天皇 大喪の礼。伏見桃山御陵で。1912年9月13日撮影(写真=朝日新聞社「週刊20世紀 皇室の100年」/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

その後、天皇のご葬儀などについて規定した「皇室喪儀令」が、大正天皇のご病状が悪化した大正15年(1926年)10月21日に公布された。その規定は明治天皇のご葬儀を踏襲していた。

大正天皇のご葬儀はこれに基づいて行われた(昭和2年[1927年]2月7日、8日)。葬場は新宿御苑。前近代の薄葬の伝統とは正反対の手厚い葬儀の形が確立した。

大正天皇大喪の礼 葬場殿、1927年2月8日撮影
大正天皇大喪の礼 葬場殿、1927年2月8日撮影(写真=大日本国民教育会 編『大正天皇御大喪写真帖』/国立国会図書館ウェブサイト/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

昭和天皇のご葬儀もほぼ前例踏襲

皇室喪儀令はほかの「皇室令」と共に、昭和22年(1947年)の日本国憲法の施行によって法的には無効になった。なので、法的根拠に基づいて天皇のご葬儀が行われたのは、大正天皇の時が最初で最後だった。

しかし、新しい規定が定められるまでは「従前の例に準じて」処理するとの通牒(昭和22年[1947年]5月3日、宮内府長官官房文書課)が出されている。昭和天皇のご葬儀(平成元年[1989年]2月24日)もこれによって、憲法との整合性を図りながら、なるべく前例に近い形で行われた。

上皇陛下はそれを変更しようとされている。方向性としては、ご自身がこれまで追求してこられた「国民に寄り添う」皇室像をより前に進めるために、現代にふさわしい形で薄葬の伝統への“回帰”を願っておられるように見える。