養子に次ぐ養子で御家存続

久貞の孫・中川久持ひさもち(1771~1798年)はわずか28歳で死去したため(実際は23歳らしい)、子がなく、大和郡山藩主・柳沢保光の五男、中川久貴(1787~1824)を養子とした。5代将軍・綱吉の側用人、柳沢吉保の末裔で、保光は松平信祝の義理の孫にあたるので、動員されたのだろうか。

その久貴にも子がなく、近江彦根藩主・井伊直中の七男、中川久教ひさのり(1800~1840年)を養子に迎えた。久教は大老・井伊直弼の異母兄にあたり、祖父・井伊直幸なおひでも大老という譜代の名門である。久貴の又従姉妹が久教の義理の叔母にあたるので、そのあたりから話が進んだのかもしれない。

その久教にも子がなく、伊勢津藩主・藤堂高兌たかさわの次男、中川久昭(1820~1889)を養子に迎えた。高兌の父・藤堂高嶷たかさとが8代・中川久貞の女婿だったから、その縁で養子縁組が進んだのではないか。

明治維新以降も伯爵家となった

久昭は幕末の藩主で、徳川シンパの藤堂家からの養子だったこともあり、藩内の尊皇派を排除したが、結局、尊皇派の勢いを抑えることはできず、藩論は早くに尊皇攘夷で固まった。王政復古の大号令の際に出兵することが遅れ、明治2(1869)年2月に謹慎を命ぜられるが、尊皇派の家臣が奔走して処分は取り下げられる。同年6月の版籍奉還で知藩事に任じられるが、9月に子の中川久成(1850~1897年)に家督を譲った。

中川久成伯爵の肖像写真、「明治十二年 写真御下命『人物写真帖』〈上〉」(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)
中川久成伯爵の肖像写真、「明治十二年 写真御下命『人物写真帖』〈上〉」(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)(写真左=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

久成は華族令公布で伯爵に列したが、やっぱり子がなく、安芸広島藩・浅野家の分家筋である浅野懋績としつぐの八男・中川久任ひさとう(1871~1935)を養子に迎えた。ここまでの養子には、何らかの姻戚関係が存在していたが、このケースでは見つからなかった。婚姻関係ではなく、純粋に家格で決めた養子縁組なのだろう。

久任の孫・中川久定ひさやす(1931~2017)はフランス文学の著名学者で、京都大学文学部学部長を務め、勲二等瑞宝章を授与されている。中川家の歴史で、この人が一番出世したのかもしれない。

【図表】中川家の系譜
筆者作成

検索時にプレジデントオンラインに関連する記事が表示されます

【関連記事】
「秀吉と一緒になるのがイヤ」ではない…お市の方が柴田勝家との自害を選んだ"現代人には理解できない"理由
日本人に突出して多いのはA型だが韓国は全く異なるのはなぜか…"血液型に刻まれた人類の進化と適応の歴史"【2026年3月BEST】
NHK大河ではとても放送できない…宣教師に「獣より劣ったもの」と書かれた豊臣秀吉のおぞましき性欲
異民族に3000人の皇族が連れ去られ、収容所送りに…「戦利品」になった女性皇族たちがたどった悲惨な結末
なぜ皇室に1男2女をもたらした「良妻賢母」が嫌われるのか…紀子さまを攻撃する人たちの"本音"