高3の就職活動は、不採用の連続

「子どもの頃はとんでもない悪ガキ。毎晩、近所の3、4人のおばさんたちが苦情を言うために家の前に並んでいました」

小星さんは小学校で番長だった。中学進学後に先輩から呼び出されて子分にさせられそうになったが、断固拒否。

「怖いもの知らずでしたよ。それは会社に入ってからも変わりませんでしたね」

ほとんど一方的に責められた4時間にも及ぶ喧嘩を乗り切ると、先輩たちはもう手を出してこなかった。当時はそれが暗黙の了解だったという。

とはいえ、これ以上いざこざに巻き込まれるのは嫌だと思い、小星さんは真面目に勉強に取り組み始めた。化学に興味をもち、実家が農業を営んでいたことから「宇宙で野菜を作る」という夢をもった。

地元・神奈川県相模原市にある相原高校の工業化学科に進学すると、夜中まで実験にのめり込んだ。

「うちの学科はレベルが高かったんです。私自身も成績が良くて、学年で4番くらいでした」

しかし、高校3年生の就職活動では、なかなか採用に至らなかった。

「いろいろな会社に応募したけど、どこも受からない。ある会社の社長宛てに『なぜ俺を取らないんだ』と手紙を書いたら先生に怒られました」

日本の運転免許証作成システムも開発

高校卒業が迫った1963年3月。コニカミノルタ(当時は小西六写真工業)の2次募集に応募し、どうにか就職先が決まった。

選考時に小星さんが提出した論文のテーマは「非銀塩写真」。当時は銀の化合物を使用して像を浮き上がらせる「銀塩写真」が主流だった。あえて非銀塩写真を題材にしたことからも、小星さんが若い頃からいかに野心的だったかがうかがえる。

コニカミノルタで小星さんが配属されたのは、カラー写真を研究する技術部。若いうちから頭角を現し、さまざまな発明をしていく。

写真を見ながら説明してくれる小星さん
筆者撮影
写真を見ながら説明してくれる小星さん

小星さんは1970年開催の大阪万博の展示品を作るチームに入った後、顔写真入りのIDカードを作成できるシステムを開発した。たまたま万博を訪れた警察庁長官がこのシステムを気に入り、運転免許証作成システムとして採用。これを機に、日本の運転免許証作成システムはコニカミノルタが長期にわたって独占した。

小星さんは特許を680件も取得しており、そのうち世界初の技術が7つもある。ほかにはないアイデアが次から次へと出てくるのはなぜか。

「“不可能”は嫌いなんです。誰にもできないようなことを見つけたら、可能にするための研究をします」