すぐれた人と常に身近に接する
「善知識」と聞いても一般にはなじみが薄いことばでしょう。よい知識のことではなく、仏教では「仏道へ正しく導く人」を意味する語で、仏門の師や高僧、またよき友(善友)をさして使われることもあります。
この句の「聖者たち」とは、いわばその「善知識たち」のこと。智慧をそなえ、正道を歩む彼らとともに生活するのは楽しいことで、愚か者と顔を合わせる苦がないのだから、いつも安楽(幸福)でいられるというのです。
道元禅師は、「よき人と交わっていれば、知らず知らず自分も感化されていく」として、「霧の中を行けば、覚えざるに衣しめる」ということばを引いています(『正法眼蔵随聞記』五)。霧の中を歩いていると、知らないうちに着物がしっとりしてくる――。
そのように、すぐれた人と常に身近に接していれば、知らぬ間に自分も多くを学び、すぐれた人格を身につけていくものだというのです。
善知識の反対は悪知識(※1)。楽しく幸福な時間をたくさん持ちたいなら、悪のほうには近づかず、善知識とよべるよき仲間と人生を共に過ごすことです。
よき友が自分を成長させる
よき友がいること、足るを知ること(知足)、善を積むこと、苦を脱すること。これらが人生を最後まで充実させ、幸福をもたらすということです。
友のありがたさについては、「我を生みしものは父母、我を成せしものは朋友」ということばがあります。中国の管仲(※2)のことばで、不遇の時代から常に心の支えとなった親友・鮑叔との関係(「管鮑の交わり」という成句のもと)を述懐した話がもとになっています。
「二人で商売をしたとき、私は分け前を多く取ったが、彼は私を欲張り呼ばわりしなかった。私が貧乏なのを知っていたからだ。私は何度か仕官してそのたびにお払い箱になったが、彼は私を無能呼ばわりしなかった。私にまだ運が向いてきていないのを察していたからだ。私は戦争に出るたび逃げ帰ってきたが、彼は臆病者呼ばわりしなかった。私に年老いた母がいることを知っていたからだ……。私を生んでくれたのは父母だが、私を真に理解してくれたのは鮑叔である」
足るを知り、善に生きて、こんな親友がいれば、人生は幸福と言えそうです。
※1 悪法・邪法を説いて悪に誘い込む悪い師や悪い仲間のこと。
※2 春秋時代(紀元前7世紀頃)に斉王・桓公を支えた名宰相。

