「エビデンス」を求める態度との共通点
こうした発想は新しいものではない。ガーウッドによれば、ロウボサムやカーペンター(コモンセンス)の平面説の背後には、フランシス・ベーコン(1561―1626)の経験主義や、スコットランド啓蒙の常識学派の発想があった。
地球の写真や月面着陸の映像を拒絶する態度もまた、自分の目で見たものだけを信じるという考えの裏返しである。陰謀論は証拠を無視すると思われやすいが、地球平面説では、この素朴な「実証主義」が陰謀論を呼び込んでいる。
そう考えると、地球平面論者の態度と「エビデンス」を重視する態度は、見かけほど遠くない。例えば、放射性物質の影響やワクチンの有効性といったリスクの問題をめぐり、一般の人々が「エビデンス」を求めたくなるのも、専門家の証言が手放しでは信じられないからだ。
専門家も間違えることはあるし、人によって意見が割れることもある。そういう場合、どの専門家を信じたら良いかがわからず、誰にでも疑いを向けることになる。だからこそ、「エビデンス」の有無で、その専門家が信頼できるかを見極めようとする。
専門家を疑うこと自体は悪ではないが…
もちろん、地球平面論者とそうでない人々の間では、何を「証拠」と見なすかは大きく異なるが、観察や実験に基づく「証拠」を求める態度が、専門家への疑いと同時に見られる点は、どちらにも共通している。
現在では、インターネットの発達により、専門家の発言と異なるデータが発見されたり、専門家同士の主張の食い違いが目に入ることも珍しくない。その結果、専門家の証言をそのまま信じることが難しくなっている。
その意味で、専門家の証言を疑うこと自体は悪いことではない。専門家が間違ったことを述べることもあるし、議論をミスリードすることもあるかもしれない。問題は、専門家を全面的に疑うとき、疑惑を提供する情報源や、疑いを向ける自分自身の判断能力を過信してしまうことだ。
何かを疑うことは、別の何かを信じることでもある。そのため、専門家を疑いすぎると、粗雑な「論証」をあっさり受け入れかねない。ここに、「地球平面説」の危うさがある。


