説得するために「証明」の数が重視されている
重要なのは、デュベイの動画が、カーペンターの冊子を踏襲しつつも、そのレパートリーを2倍に増やしていることだ。その直接的な理由は、旅客機の発明やNASAの設立といった新たな状況が生まれたことにあるが、もっと根本的なのは、「証明」の数へのこだわりだろう。
「証明」の数を増やそうとするからこそ、新しいレパートリーが次々に開発される。元を辿れば、ロウボサムの『探究的天文学――地球は球体ではない!』自体が、とめどなく膨らんでいく性質を持っていた。
通常、対立説を論駁するには、周到な「反証」が用意される。ところが、平面説においては、無数の「証明」(=反証)が提示される。球体説を棄却するという目的に照らせば、これにはあまり意味がないが、人々を説得するためには、「証明」の数が決定的に重要になる。大抵の人は、全ての「証明」に対して瞬時に反論することができないからだ。
これを象徴するのは、平面論者ネイサン・トンプソンの活動だろう。トンプソンは、道行く人に声をかけ、平面説を説いてまわる様子をYouTubeで配信したことで有名になったが、この活動を「平面平手打ち(flat smacking)」と呼んだ。「証明」を突きつけることは、一種の「平手打ち」なのである。
平面説は「カルト」なのか
ここまで来ると、地球平面説の性質も見えてくる。
地球平面説と聞くと、荒唐無稽な地球のモデルを信じる「カルト」のようなものに思えるかもしれない。だが、その内実はむしろ、球体説の「論駁」が中心である。その意味で、「反球体説」と呼ぶ方がわかりやすい。
もちろん、フラットアースのモデルも議論されるが、それはあくまでも球体説を棄却した後で、その代替案として導入されるものだ。球体説が棄却されているからこそ、平面モデルを「仮説」として提示することが意味を持つ。
逆に、平面論者からすると、球体説の支持者こそ、専門家の証言や教師の説明を鵜吞みにしているにすぎない。例えば、地球の自転や公転を体感することはない。だから、経験だけに基づけば、地球が静止した平面だと考えるのは自然な発想だと言える。
ところが、地球が球体であることを、証拠を示しながら説明できる人はほとんどいないし、球体説の正しさを観察や実験によって確かめようとする人もいない。それは悪しき「権威主義」ではないのか――平面論者はそう考えて、観察や実験、あるいはデータを「見る」という自分の経験(に基づく納得感)を重視するのだ。

