日本は石油を確保するため、南方へ戦線を広げた。ところが、その石油を本土へ運ぶ民間輸送船の護衛は後回しにされた。ルポライターの昼間たかしさんは「第1海上護衛隊の護衛対象は商船約1000隻だったのに、護衛艦はわずか18隻だった。戦争末期には、船団を大型化しても米軍の攻撃を防げず、輸送船は次々と海に沈んだ」という。補給を軽視した日本軍のもと、民間輸送船と船員たちはどのような運命をたどったのか――。
1945年1月、仏印沖で炎上する日本のタンカーとされる写真
1945年1月、仏印沖で炎上する日本のタンカーとされる写真(写真=米国海軍/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「広大な占領地」と「貧弱な海上輸送」の矛盾

なぜ日本は太平洋戦争に敗れたのか。大きな一因は、補給の軽視にあった。

日本が太平洋戦争に踏み切った大きな理由は資源だった。米国の経済封鎖によって石油の輸入が途絶え、南方の油田地帯を確保するために開戦を決意した。石油がなければ艦船は動かず、航空機は飛べず、戦争は続けられないからだ。

緒戦では、日本軍は勝利を重ね、南方の資源地帯を相次いで占領した。石油を確保するという目的は、ひとまず達成したかに見えた。

しかし、戦線の拡大によって、南方の占領地と本土を結ぶシーレーンは長大になった。米軍の反攻が始まると、潜水艦や航空機によって商船が次々と沈められ、資源を本土へ運ぶ補給網は急速に細っていった。日本は石油地帯を占領しておきながら、そこで採れた石油を運ぶ船を守れなくなったのである。

海軍は艦隊決戦を優先し、海上輸送の防衛に十分な人員や艦艇、航空戦力を振り向けてこなかった。その結果は、数字にも表れている。

太平洋戦争開戦前、日本は約600万総トンの船腹を保有する世界第3位の海運国だった。ところが、終戦時には150万トンまで減少した。日本殉職船員顕彰会によれば、戦争に参加した船員に占める戦没者の割合は推計43%に達し、陸軍の約20%、海軍の16%を大きく上回った。つまり、民間船員が、軍人を上回る割合で命を失った戦争でもあった。

南方占領地には、石油も生ゴムも鉄鉱石も存在した。本土に届かなければ意味がない。商船の損失が膨らむなか、海軍が資源輸送を維持するために進めたのが、護送船団の大規模化だった。

だが日本には、その船団も、航路も十分に守れる態勢がなかった。

商船1000隻に、護衛艦はわずか18隻

開戦前、海軍が算出した商船の損失予測は年間80万トンだった。この数字は第一次大戦における英軍の実績を参考にしたものだった。

しかし英軍の船団護衛制度は当時の日本より遥かに整備され、護衛も厳重だった。その違いを十分に考慮せず、英国の実績を日本に当てはめた予測には、そもそも無理があった(岩重多四郎「『ミ号』船団史〜海上護衛戦の実態を探る〜」『戦争と平和:大阪国際平和研究所紀要』11)。

1942年4月、占領した南西方面の海上交通を守るため、第1海上護衛隊が編成された。しかし護衛対象となる商船は1000隻あまり。護衛艦はわずか18隻だった。しかも徴用貨物船を改装した特設砲艦や旧式駆逐艦が中心だった。1個船団に護衛艦1隻の態勢さえ継続できず、無護衛のまま航行する船団が全体の3割にも及んだ。

海軍の損失予測は1942年末には早くも崩れ、1943年9月の時点で総保有量が550万トンを切った。民需船は必要値を2割下回っていた(前掲)。

そうしたなかで、南方から日本本土への石油輸送を担う重要な航路となったのが、ヒ号船団とミ号船団だった。

ヒ号船団は1943年7月、原則としてシンガポール(昭南)と門司を結んだ。大型・高速のタンカーなど比較的優秀な船が優先して投入された(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書46 海上護衛戦』朝雲新聞社、1971年)。

ミ号船団は1944年4月に設けられたボルネオ島北部の産油地ミリと日本本土を結ぶルートで、比較的低速で、雑多な船も加わった。