護衛不足を補う「大船団方式」の限界
大船団方式の論理はこうだ。潜水艦は一度に攻撃できる船の数には限界がある。ならば船を一つの船団に集約し、護衛艦も集中させれば、個々の商船が攻撃を受ける確率は下げられる。悪化していた損害率も下げられる。
1944年4月頃から海上護衛総司令部は大船団主義を推進し、ヒ号船団やミ号船団では護衛艦を含め15隻から30隻以上の大型船団が組まれるようになった。
船団の大型化それ自体には合理性があるように見えるが、その効果を発揮させるだけの護衛艦や航空支援が足りず、本格的な導入も遅かった。そもそもの発想がおかしい。商船を「守る」のではなく「沈められる数を減らす」ことを目的としている。損耗を前提とした確率論的な管理であり、補給路を「守り抜く」という発想は最初からなかったのだ。
そして、1944年10月のレイテ沖海戦で連合艦隊主力が壊滅し、日本はフィリピン方面の制海・制空権を急速に失っていった。さらに米空母機動部隊が南シナ海へ進出すると、大船団方式の欠陥は致命的になった。護衛艦を集中させただけでは、船団を大規模な航空攻撃から守れず、意味がなくなってしまった。
戦局の悪化とともに、ヒ号船団の構成も変わっていった。
本来、ヒ号船団は高速の優秀なタンカーで編成されるはずだった。しかし、優秀な船は次々と撃沈され、補充する新造船もない。1944年11月にはミ号船団そのものが廃止され、その生き残りの低速タンカーまでヒ号船団に組み込まれた。名称は同じでも、当初の姿は失われていた。
その末期の姿を象徴するのが、1945年1月のヒ86船団だった。輸送船10隻のうち、タンカーは4隻だけで、貨物船のほか、533総トンの冷凍船や600総トンの東京都の屎尿運搬船まで加わっていた。船団速力はわずか8ノットだった。
ヒ86船団に1番船として加わった「さんるいす丸」は、1928年竣工。開戦時すでに13年を経ていた。これが「主力ルートの1番船」として南シナ海を北上していた。
それが末期の実態だった。
輸送船10隻を待っていた壊滅的な攻撃
そのヒ86船団の軌跡を追ってみよう。
ヒ86船団は1944年12月30日、昭南(シンガポール)を出港した。輸送船10隻、護衛艦6隻の計16隻。石油・生ゴムなどの南方戦略物資を積んでいた。旗艦は「香椎」で、澁谷紫郎少将が座乗した。
船団は1月4日、サンジャック(現ベトナム・ブンタウ)に入港。1月9日12時30分、再び出港して北上を開始した。潜水艦を避けるため、陸岸から2キロの浅瀬を這うように進む接岸航行を行い、バンフォン湾やキノン湾に夜泊をしながら日本本土を目指した。
その1番船が、さんるいす丸だった。
重要な資源を運ぶ船団でありながら、護衛はあまりにも貧弱であった。旗艦「香椎」は、日本海軍が練習航海用として建造した艦である。1944年3月には、海上護衛総司令部の直属となり、大規模な改装を受けていた。魚雷発射管を撤去し、高角砲や機銃、対空レーダー、爆雷投射機などを追加。ただし潜水艦への対処を目的としたもので、多数の空母艦載機を迎撃できるほどの備えではなかった。
その香椎を旗艦とした第101戦隊は、日本海軍が初めて船団護衛を主任務として編成した戦隊だった。船団を守るのは香椎と海防艦5隻だけだった。潜水艦にも、ましてや米空母機動部隊による大規模な航空攻撃を防ぎ切れる戦力ではなかった。
その結果は、1番船だったさんるいす丸の戦闘概報に残されている。

