別居中にもガラシャは次男を産んだ
では、そんなガラシャと忠興との関係は、というと、紆余曲折はありながらも離縁せず関係は続いた。別居中だったと思われる1583(天正11)年頃には、次男・興秋が生まれている。1584(天正12)年、ガラシャの幽閉は解かれ大阪の屋敷へ。そしてガラシャが洗礼を受けた当時、秀吉によるバテレン追放令が発せられていたが、二人の夫婦関係は続いた。ガラシャは洗礼後の1588(天正16)年、忠興との間に次女・多羅をもうけている。
しかし、二人の別れは突然訪れる。1600(慶長5)年7月17日、徳川家康討伐の兵を挙げた石田三成の軍勢に、大坂の細川屋敷を囲まれガラシャは最期を迎える。人質になるよう要求されたことを拒否した結果だった。クリスチャンのため自害はできず、家臣の手を借りたといわれている。
忠興は妻を死に追いやった三成を…
その時、夫の忠興は家康が総大将を務める上杉征伐の軍に加わり、東国にいた。「ちりぬへき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」というガラシャの辞世の句を、忠興はいつ、どこで知ったのだろうか。
ガラシャが散ってから約2カ月後の9月15日。関ヶ原の戦いで東軍についた忠興は、西軍を率いる石田三成を果敢に攻め、江戸時代に細川家を肥後藩主の大名に押し上げる戦功を挙げることとなる。



