浮き彫りになる秀吉の狡猾さ
その後、事態は周知のとおり、織田信雄を担いだ秀吉と、それに不満な信孝を支援する勝家との争いに発展する。力を失って伊勢に戻った一益は、当然ながら勝家方にくみした。そして天正11年(1583)正月、伊勢で挙兵し、居城の長島城(三重県桑名市)に織田信雄や蒲生氏郷の軍をしばらく引きつけておくことに成功している。
だが、賤ヶ岳の戦いで敗れた勝家は北庄城(福井市)で自害し、織田信孝も岐阜城(岐阜市)を攻められ、自害に追い込まれた。一益の孤軍奮闘になったのち、7月に降伏してすべての所領を没収され、剃髪している。
天正12年(1584)に信雄と徳川家康が秀吉と戦った小牧・長久手合戦が起きると、今度は秀吉方について復活を試みたが、家康に蟹江城(愛知県蟹江町)を包囲されて敗戦し、ふたたびすべての所領を失っている。
その後は表舞台から姿を消し、2年後に死去。いろいろと不運が重なった生涯だったが、そこに巧みにつけ込む秀吉の狡猾さもまた、一益をとおして浮き彫りになる。

