完全に無視された滝川一益の功績
秀吉と勝家、それに長秀まではいい。織田家の宿老としてもう1人を加えるなら文句なく、「豊臣兄弟!」では猪塚健太が演じる滝川一益のはずである。ところが一益の名はどこにもなく、織田家の宿老というよりは中堅どころの家臣だった池田恒興が加わっている。
本能寺の変と光秀の滅亡で、領主が失われた所領の再配分に関しても、滝川一益は無視されている。所領は4人の宿老が談合して、次のように配分された。
織田信雄には尾張(愛知県西部)。信孝には美濃(岐阜県南部と愛知県の一部)。秀吉には山城(京都府南部)と丹波(京都市中部、北部と兵庫県東北部)、河内(大阪府東部)の東部。柴田勝家には近江の長浜領(滋賀県北部)。丹羽長秀には近江の高島郡と志賀郡(滋賀県高島市と大津市)。池田恒興には摂津(大阪府北部、中部と兵庫県南東部)の大阪市周辺。そのほか、三法師の傅役とされた堀秀政に近江の中郡(滋賀県近江八幡市や東近江市)が割り振られた。
一見して、明智光秀掃討の功労者とされた秀吉が、大きく勢力を伸ばしているが、それはともかくとして、滝川一益は所領の配分においても、完全に無視されているのである。
武田勝頼を自害に追い込んだのに
永禄3年(1560)の桶狭間合戦以前には信長に仕えていたと考えられる滝川一益は、同10年(1567)と11年の伊勢(三重県中北部)への侵攻で頭角を現し、同12年には伊勢の5郡を本拠とした。かなり早い時期に一定の所領をあたえられており、信長がいかに一益を重んじていたかがわかる。
その後、朝倉義景を滅ぼした一乗谷合戦、伊勢長島一向一揆の鎮圧、長篠合戦、越前一向一揆の攻略、紀州征伐、第二次木津川口合戦、有岡城合戦……と、信長の主要な戦いには軒並み参陣し、重要な役割を果たしてきた。ただし、伊勢方面に加えて、とくに東日本に強みがあったことが、一益にとっては不運だったといえる。
一益は織田政権において関東、とりわけ北条氏との取次を一手に引き受けていた。関東一帯ばかりか、甲斐(山梨県)や信濃(長野県)も含めた東国全体をとりまとめ、越後(新潟県)の上杉家をはじめとする、織田家に敵対する勢力に対抗する役割を負っていた。そして実績も挙げていた。
本能寺の変まで3カ月に満たない天正10年(1582)3月11日、武田勝頼を天目山麓に追い込んで自害させたのも一益だった。武田氏の旧領が織田家の家臣に分与された際は、上野(群馬県)一国のほか信濃の小県郡と佐久郡(長野県東部)を得ている。
だが、結果をみれば、ここで実績を上げたために足を引っ張られてしまった。

