秀吉が一益へ送った怖い手紙

本能寺の変から5日後の6月7日、信長の死を知らされた一益が、上京する意志を述べたことは各種史料が伝えている。だが、現実には、上京は簡単ではなかった。信長没後の東国が、周辺の領主たちの草刈り場になってしまったからだ。

とくに北条氏政は、信長の死後も協調関係を保つ旨を書状で一益に伝えながら、舌の根が乾かぬうちに、一益の所領の上野にどんどん侵攻してきた。とくに6月16日から19日にかけ、神流川の戦いで北条方に惨敗した影響は一益にとって大きく、やむなく本来の拠点である伊勢へと敗走しようとするが、各地で抵抗に遭って思うように進むことができなかった。結論をいえば、27日の清須会議に間に合わなかったのである。

とはいえ、6月21日にはすでに信濃にいて、清須会議の翌日の28日には美濃に入っている。信長のために尽くしてきた宿老の一益を、2、3日くらい待ってあげられなかったのかと思う。だが、待ちたくなかったのだろう。清須会議の前日に秀吉が一益に宛てた手紙が見つかっていて、そこには次のようなことが書かれていた。

毛利と和睦後、明智光秀を破ったこと。その後、光秀は山科で百姓に討たれて首は溝に捨てられていたこと。光秀の居城の坂本城を攻め、娘婿は城に火をつけて焼け死んだこと。光秀の家老の斎藤利三を処刑したこと。光秀についた阿閉一族を皆殺しにしたこと……。どう読んでも、いまさら一益には出る幕がないと伝えているようにしか思えない。

中堅武将だったのに出世した池田恒興

要するに、清須会議を主導した秀吉にとっては、織田家の宿老の数は少ないほうがいいので、一益は体よく葬られたとみるのが妥当だろう。一益が近くまで来ているのを知りながら、あえて待たずに会議を開いた、ということではないだろうか。

その結果、一益は織田政権の体制を決める4人の一角を占められなかったばかりか、所領の再配分にあずかることさえできなかった。ただでさえ関東を失ったので、織田家と光秀の所領を再分配してほしいと要求したが、秀吉らはいったん決めた所領の配分が変わるのを嫌がって拒否。以後、織田家における一益の立場は、急速に弱まってしまう。関東にいた不運が半分。もう半分は、秀吉にしてやられたということだろう。

一方、唐突に宿老の仲間入りした池田恒興は、秀吉にとって外すことができない事情があった。近年、発見された秀吉の書状によれば、秀吉は光秀の軍を破った山崎合戦に間に合っていなかった。代わりに光秀と戦ったのが池田恒興らで、恒興は光秀討伐の功労者であるとともに、秀吉にとっては、自分に光秀討伐の功績をもたらしてくれた恩人でもあった。

だから、織田家家臣として中堅だった恒興が、いきなり宿老4人の1人になり、代わりに元来が実力者の一益が外されてしまった、と考えられる。

池田恒興〔狩野家狩野尚信(鳥取県立博物館)の画を孫の狩野甫信(狩野常信三男)が写したもの〕
池田恒興〔狩野家狩野尚信(鳥取県立博物館)の画を孫の狩野甫信(狩野常信三男)が写したもの〕(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons