軍記物が“史実”として叙述されてきた

(『備前軍記』は)従来岡山県の中世史に大きな影響を与えてきた。その所以は、主に記述される年代の長さ、記述される地域的範囲の広さ、活字として入手しやすいことなどがある。そのため、かつて岡山の中世後期を概説する際には、大げさにいえば根幹資料として用いられてきた感がある。

実のところ、岡山の戦国時代は、こうした軍記物をそのまま史実として叙述されてきた。ところが、2001年に森俊弘「岡山藩士馬場家の宇喜多氏関連伝承について――「備前軍記」出典史料の再検討――」(『岡山地方史研究』95)を契機として、再検討が行われるようになり記述自体が疑問視されるようになってきた。

とりわけ再検討が広がったのは、宇喜多家と浦上家の主従関係である。近年の研究では、両家はほぼ対等な関係にあったという見方が有力になっている。つまり、直家は謀略を駆使して主家を乗っ取ったのではなく、多くの戦国大名と同じく数多の抗争をへて地位を確立したのである。

この新たな直家像が一躍知られるきっかけとなったのが、垣根涼介の歴史小説『涅槃』(朝日新聞出版、2021年)である。垣根は、様々な資料をもとに直家の素顔を物語にしようと試みている。

岡山城
岡山城(写真=Kanesue/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons

関ヶ原“後”に廃棄されてしまった史料

垣根が、これまで直家が悪し様に語られてきた理由として、史料がほとんど残っていないことを挙げる。関ヶ原の戦いの後、秀家が八丈島に流されると、後に入った小早川秀秋は資料を廃棄してしまった。毛利家などは江戸時代にも武士として命脈を保ったが、宇喜多家はそうではなかったのだ。

歴史は常に勝者の都合によって解釈され、喧伝されるものです。後継者が残っていれば誰かが擁護する目も出てくる可能性がありますが、武家としての宇喜多家が途絶えてしまっている。太平の世を迎え、「忠節」を第一義とした徳川家の意向もあり、「悪人」のイメージは意図的に作り出されたものなのでしょう。

(垣根涼介「信長をも翻意させた生き残り戦略、そして家臣との絆」『歴史街道』2019年12月号)

こうした再評価には様々な研究者も言及している。「真田丸」などの時代考証にあたった平山優は地元紙山陽新聞の取材に次のようにコメントしている。