岡山が求める“先見性のある英傑”

岡山が求めているのは、直家と秀家の二代にわたる物語。確かに、秀家の代には備前美作備中半国の大名だったわけだから、岡山県の市町村ならどこでもという理屈はわかる。が、県北の直家も秀家も縁がなさそうな地域まで盛り上がっているのはどういうことか。

宇喜多直家
宇喜多直家(写真=岡山市ウェブサイト/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

ともあれ、盛り上がりの中心はやはり岡山市である。1966年に復元された現在の天守は、2021年から2022年にかけて「令和の大改修」でリニューアル。以来、岡山市は観光スポットとしての岡山城に、なりふり構わない努力を重ねている。なにせ、昨年の夏に天神そばで三玉を食べてから訪れてみたところ、ポケモンコラボで来場者を集めていたくらいだ。

そんな岡山人の主張する大河ドラマのイメージは、「梟雄」「暗殺魔」のイメージが強い直家のイメージを覆し、先見性のある英傑として描くこと。そして、秀家は豊臣家への忠義から西軍についた人物となる。なにより八丈島に流された後も離縁しなかった妻・豪姫との夫婦愛も見どころになるようだ。

そのためにか内部が博物館となっている岡山城では、直家の「梟雄」のイメージを覆す展示が繰り広げられている。

いやいや、これは無茶ではないかと筆者も思っていた。出身者の立場からいえるのは、岡山人というのは、だいたいろくでもない奇人変人の類いと相場が決まっている。それでいて、儲かると思えばなりふり構わない。

「改修にもカネがかかったし、ここは大河ドラマにしてもらって大儲けじゃ‼ 両備は乗客倍増、天満屋は売り上げ倍増……」

しかし、これは大いなる誤解だった。

「岡山市史」に残る、容赦ない批判

そもそも直家の「梟雄」こそが後世の創作。2026年の今、その実像が初めて明らかにされようとしているのだ。

なにせ今でこそ「梟雄じゃないんじゃ」と必死な岡山人。でも、非道なイメージを作ってきたのは岡山人である。昭和11年に編纂された『岡山市史』では、直家の項目で、わざわざ「権謀術数」という項目を設けて「直家の計略一に術数に依り。悪辣なる手段又多し」と書いている。この『岡山市史』直家のみならず宇喜多家そのものを容赦なく批判し、ついにはこう記している。

宇喜多に至りては一貫の大義なく唯々乱世に処し、徒に世と推移して名分を誤り、順逆に迷ふのみ。何等存在の意義を有せざるものなり[『岡山市史』第2,明治文献,1975.国立国会図書館デジタルコレクション(参照 2026年7月31日)]。

いくらなんでも酷い評価である。なのに今になって大河ドラマにしようと盛り上がっている岡山人こそ、徒に世と推移して名分を誤っている……。

石畑匡基「梟雄ではない? 宇喜多直家の実像――浦上宗景VS宇喜多直家」(『歴史研究』719号)は、こうした見方に再考を促す論考だ。ここで、石畑は直家が梟雄と呼ばれた理由を、前述の通り、主家である浦上家を乗っ取り備前の領主に成り上がったとする『備前軍記』が源泉だとしている。これは、江戸時代後期に岡山藩士の土肥経平が編纂したもので1774年に完成したものとされる。三宅克広「中世文書と近世の編纂物:岡山の戦国史研究の現状と課題」(『法政史学』58号)はこの書物の評価を、こう記す。