真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官・山本五十六はどんな人物だったのか。歴史家の保阪正康さんは「戦後に山本のイメージを決定づけたのは阿川弘之さんが書いた小説『山本五十六』。だが、阿川さんは初版を大幅に書き直すはめになった」という。戸髙一成さん、大木毅さんとの鼎談をお届けする――。

※本稿は、保阪正康、戸髙一成、大木毅『虚構の昭和史』(角川新書)の一部を再編集したものです。

山本五十六肖像写真
山本五十六肖像写真(写真=国立国会図書館「高木清寿関係文書」より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

空母が半分沈む計算でも作戦実行

山本五十六やまもといそろく 1884〜1943年。元帥・海軍大将。海兵三二期。航空本部長、海軍次官、連合艦隊司令長官など。太平洋戦争前半で連合艦隊を指揮するも、1943年4月、ソロモン上空で乗機を撃墜され戦死。国葬に付せられた。

【戸髙】真珠湾攻撃部隊の指揮官が南雲忠一なぐもちゅういち(*1)。南雲は当時の艦隊派の長老なのです。最終的には、軍令部が白旗を揚げて真珠湾攻撃が採用された。しかし、図演をやると6隻の空母のうち必ず半分が沈むと出る。だから山本五十六にしても、あんなにうまく行くとは露ほども思っていなかったでしょう。むしろ無理な攻撃ですが、この作戦で南雲が危ない目に遭ってもいいと思っていたかも知れません。そう思っていても不思議でないほどに艦隊派を嫌っています。

【保阪】「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かず」という上司のかがみのような言葉を残した山本像とは随分違ってきますね。

【大木】それは山本自身の言ったことではないらしいですが(笑)。

実際、太平洋戦争の時の海軍は、挙げて山本五十六を支持していたみたいなイメージを持ってしまいがちですが、艦隊派系の人や「鉄砲屋」と称していた砲術科の人たち、それに航空の非山本閥の人などは、必ずしも山本のことをよく思っているわけではありません。

山本五十六は戦死して「神話」に

【戸髙】それは戦後も続きました。真珠湾攻撃が成功して山本が国民の大英雄になり、その後も大本営発表で勝ち戦を続けていることになっていながら、悲運の戦死を遂げて、「山本五十六神話」ができてしまったわけですから。海軍側の人たちも、今さら山本の悪口を言っても仕方がありませんしね。

山本五十六が戦死する直前、ラバウルで日本の海軍兵士に敬礼する様子、1943年4月18日
山本五十六が戦死する直前、ラバウルで日本の海軍兵士に敬礼する様子、1943年4月18日(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

【大木】『歴史と人物』(中央公論社)という雑誌で「誰が真の名提督だったか」というテーマの座談会をやったことがあります。将官から大佐クラスだったみなさんに集まっていただき、軍令部総長や連合艦隊長官まで俎上そじょうに載せて、その真価を議論してもらったのですが、その時に松田千秋さんが、まさにポロッと、思わず出たという感じで山本五十六の悪口を言いました。驚きました。あの座談会は、海軍軍人には珍しい、先輩に対して歯に衣着せぬ批評を加えていて、貴重な記録だと思います。

(*1)南雲忠一 1887〜1944年。海軍大将。海兵三六期。第一航空艦隊司令長官、第三艦隊司令長官、中部太平洋艦隊司令長官など。1944年7月、サイパンの戦いで自決。