戦艦大和の艦長も山本を批判した

【戸髙】松田千秋さんは、軍令部にいた時に後の戦艦大和の性能の概要を起案した当人なのです。次期新戦艦はかくあるべしという方針を出した人物。46センチ砲8門以上とか、速力30ノットという基本プランを出して予算を取ったのが松田千秋さんでした。その松田さんは、昭和17(1942)年12月に戦艦大和へ艦長として着任します。そんな戦艦を起案するのですから、松田さん自身は徹底的に艦隊決戦主義の人であるわけです。

しかし、一切そういう軍令部・艦隊派的な考え方を受け付けない山本五十六が連合艦隊司令長官として同じ大和に乗っている。考え方が合うわけがありませんし、そのうち海軍はズルズルと負けていく。軍令部の言うことをその後も絶対に聞かずに、最後は長官自ら飛行機で撃墜されて戦死です。戦後になっても腹に据えかねていたのか、ずっと山本の文句を言っていましたね。

私は、松田さんには何度かご自宅で話を聞きましたが、ご自身が起案した戦艦大和艦長に着任した時の気持ちはどんなでした、と聞くと、にこにこして「そりゃー君、気持ちよかったよ」とご機嫌でした。