戦艦大和の艦長も山本を批判した
【戸髙】松田千秋さんは、軍令部にいた時に後の戦艦大和の性能の概要を起案した当人なのです。次期新戦艦はかくあるべしという方針を出した人物。46センチ砲8門以上とか、速力30ノットという基本プランを出して予算を取ったのが松田千秋さんでした。その松田さんは、昭和17(1942)年12月に戦艦大和へ艦長として着任します。そんな戦艦を起案するのですから、松田さん自身は徹底的に艦隊決戦主義の人であるわけです。
しかし、一切そういう軍令部・艦隊派的な考え方を受け付けない山本五十六が連合艦隊司令長官として同じ大和に乗っている。考え方が合うわけがありませんし、そのうち海軍はズルズルと負けていく。軍令部の言うことをその後も絶対に聞かずに、最後は長官自ら飛行機で撃墜されて戦死です。戦後になっても腹に据えかねていたのか、ずっと山本の文句を言っていましたね。
私は、松田さんには何度かご自宅で話を聞きましたが、ご自身が起案した戦艦大和艦長に着任した時の気持ちはどんなでした、と聞くと、にこにこして「そりゃー君、気持ちよかったよ」とご機嫌でした。
遺族から抗議を受けた『山本五十六』
【大木】話を阿川弘之さんの『山本五十六』に戻しますが、阿川さんは往年の海軍精神を体現したような人たちから話を聞いて、海軍観を再構築した。聞いたその話は嘘ではないが、あくまでも「いい時はそうだった」という話で、真相はそれだけではない。しかし、阿川さんの中の海軍はそういうところになったのでしょう。
『山本五十六』がベストセラーになって、その後も『暗い波濤』、『軍艦長門の生涯』(新潮社、1975年)、『米内光政』、『井上成美』と、海軍は本来、開明的でリベラルなところだという前提で書き続けて行った。あくまでも間違いではない。でも、それは保科善四郎さん、さらには千早正隆さんや大井篤さんぐらいまでの、大正時代の海軍兵学校で育てられた人たちの海軍なのです。
太平洋戦争に突入した頃の、尉官クラスの人たちはまた別の経験をしています。
【保阪】私はもう少し後の世代になりますが、話を聞く人のバックグラウンドはとても気になります。情報のソースによって作品が当然違ってくるからです。阿川さんや司馬遼太郎さんにしても、いい作品ではあるが、それだけではないということなんですよね。
