狙いは「勝利」ではなかった
試合ルールは開始直前までもめた。当初、楽観していたアリ陣営は猪木の実力を再認識するにつれて危機感をいだいたのだ。
「猪木はタックル、チョップ、投げ技、肘打ちは禁止」という条件を持ち出し、さらに試合前日になって、「猪木は立ったまま脇腹、後頭部を蹴ってはいけない。蹴るときは片手を床についているときか、両手をついている場合だけだ。飲めないなら試合はせずにアメリカに帰る」
アリ陣営は強硬だった。これで戦えるのか。新間は猪木に意見を聞いてみた。
「要求はなんでも飲め。試合しないで帰られたのでは元も子もない」
リアリストの返事は明快だった。
新間も納得した。この試合の狙いは、アリと戦うことで「アントニオ猪木」の名前を世界ブランドにすることなのだ。
「世紀の一戦」は1976年6月26日午前11時50分、アメリカのクローズドサーキットに合わせてゴングが鳴った。日本武道館は超満員だった。
世界中に笑われた試合が勲章に
だが、試合は惨憺たるものだった。リングに立っているのはアリだけで、猪木はマットに仰向けに寝転び、膝を軽く曲げた脚をアリに向けて攻撃の機会をうかがっている。
アリも攻めあぐねている。のち「猪木アリ状態」と呼ばれ、総合格闘技において見られる戦法だった。膠着状態が続く。不利なルールに縛られた猪木としては、これ以外に戦う方法はなかったのである。
だが、観客はそのことを知らない。手に汗握るバトルを期待している。15ラウンドのほぼすべての時間が「猪木アリ状態」だった。判定は引き分け。観客はリングにものを投げ、罵声を浴びせた。
翌朝のスポーツ新聞は筆をそろえて酷評した。
『世界中に笑われた ドロー アリ・猪木 “スーパー茶番劇”なにが最強対決』(1976年6月27日付「日刊スポーツ」)
新日本プロレスの人気は一気に低下する。不入りで興行にならない会場もあった。プロレス中継のテレビ視聴率も下がった。
だが、新間には確信があった。試合内容は人々の記憶から消えていき、あとに残るのは「アリと戦って引き分けたプロレスラー」という栄誉と勲章なのだ。
その効果は早々に現れる。アリ戦からしばらくして、新日本プロレスはパキスタンからオファーを受けて興行を打つ。深夜3時の到着にもかかわらず、空港には猪木をひと目見ようと4、5000人ほどが詰めかけ、歓迎したのだった。


