世界への扉を開いたダメ元の一言
難題は外国人レスラーの招聘だった。当時、招聘ルートは日本プロレスと国際プロレスに握られているため、新日本プロレスは大物レスラーを呼ぶことができなかった。妙手が浮かばないまま、新間が所用でロサンゼルスに飛んだときのことだ。
ビンス・マクマホン・シニア(WWF=現WWE代表)がたまたま滞在していて紹介される。
「うちに選手を送っていただけませんか?」ダメ元だ。非礼を承知でぶつけてみた。
「オーケー」
こころよく引き受けてくれたので新間が驚いた。「過激な仕掛け人」と呼ばれながら、新間にはどこか憎めない稚気のようなものがある。マクマホンは気を許したのだろう。1974年2月、当時、世界一の売れっ子であった“大巨人”のアンドレ・ザ・ジャイアントを招聘し、新間はプロレス関係者の度肝を抜く。
そして1975年、ビッグチャンスが訪れる。アメリカから帰国した自民党国会議員の八田一朗(元日本レスリング協会会長)が新間に耳打ちする。
「モハメド・アリが誰とでも戦うと言っているぞ」
新間の胸は躍った。アリと戦えば間違いなく世界的な話題になる。しかもボクシングvs.プロレスという異種格闘技だ。世界のメディアが注目する。
新間はすぐさま挑戦状を送りつけた。
アリをリングに引きずり出した執念の仕掛け
「イノキ? WHO?」
アリは無視した。
新間はあらゆるチャネルを使ってアプローチする一方、欧米のマスメディアに向けてアリ戦のアピール記事と写真を送りつけて煽った。
さらに1976年2月6日、「格闘技世界一決定戦」第1戦として、ミュンヘン五輪柔道金メダリストのウィレム・ルスカと猪木を対戦させ、勝利する。アリとの対戦に期待が集まっていく。アリ側としては猪木の挑戦を無視できなくなった。新間はアリが挑戦を受けざるを得ないよう“外堀”を埋めていったのである。
アリ側は対戦を承諾し、ファイトマネーを提示する。諸説あるが、新間が自著で明らかにした金額は600万ドル。そのうち300万ドルは「クローズド・サーキット」(劇場用テレビ映画)でまかなうため、新日本プロレスが用意するのは残りの300万ドル(当時のレートで9億3000万円)ということになった。
会社にそれだけのカネはない。新間はテレビ局やスポーツ紙、後援者の間をくまなく走り回り、なんとか300万ドルを調達した。新間の大勝負だった。

