もともと国境にあった要の城

主尾根の東端付近には今度は横堀。その南斜面がやや勾配が緩いな、と思いきや、ここに最も長大かつ本数の多い畝状竪堀群。実に抜かりのない構造になっている。

長大な土塁と並行するように横堀が伸びる
撮影=今泉慎一(風来堂)
長大な土塁と並行するように横堀が延びる
城の東南斜面の畝状竪堀群
撮影=今泉慎一(風来堂)
城の東南斜面の畝状竪堀群

もともと、宮路山城は備中国の東端で、備前との国境を守る「境目七城」のひとつ毛利家の最前線として、以前から重要視されてきた。ゆえに、備中高松城の戦いに際し急造されたであろう他の陣城(前線基地)とは比較にならないほど、徹底的に凝った構造なのだ。

紙一重で天下人の道を得た秀吉

宮路山城を任されていたのは、乃美元信とも乃美景興とも伝わる。乃美家といえば、毛利元就の三男・小早川隆景傘下の重臣で、戦上手として知られる家系だ。城も城主もなかなかに手強い相手だが、この城の重要性を秀吉は重々わかっていたのだろう。記録も乏しく詳細は不明だが、宮路山城は備中高松城をめぐる緒戦の中で、半月ほどかけて秀吉方の手に落ちることとなる。

宮路山城が落城したのは1582(天正10)年5月2日。その前日に秀吉は、黒田官兵衛の献策を採用し、水攻めを決意したとか。宮路山城攻略はほぼ確定、ならば水攻めに横槍を入れることもできないだろう、との読みがあったに違いない。実に用意周到だった。

そして2カ月後の6月2日、本能寺の変が起こる。秀吉がそれを知ったのが翌3日で、その翌日の清水宗治自刃を見届けてから、主君・信長の仇敵、光秀討伐のための「中国大返し」を敢行する。

こうしてみると薄氷を踏むような展開だ。宮路山城攻略から突貫工事での築堤建造がなければ、備中高松城の戦いの決着はさらなる時間を要していたはず。おそらく信長亡き後の覇権は握れず、「秀吉の天下」は訪れていなかったのだ。

【図表】戦国の城・5技能採点表「宮路山城」
プレジデントオンライン編集部作成
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