40日間足らずで民家は破壊し尽くされた

しかも僕は、夜戦用の暗視装置も持っていなかった。5月のロシアは月の位置が低く、月明かりが照らす範囲は狭い。僕がいる森のなかでは、あたりは闇と化す。真っ暗闇の中、裸眼で戦うことは不可能だ。

国境警備隊のブリンダッシュに敵の戦闘車両が来たとき、兵士を潜伏させていった可能性もあった。そして深夜0時過ぎ、500m先で襲撃が起きた。真っ暗闇で何もできずに、ブリンダッシュに隠れているしかなかった。敵に見つかれば間違いなく殺されるが、運よくこちらには現れずに難を逃れた。

ウクライナ軍の猛攻は収まる気配がなかった。わずか40日間足らずで、見通しの良い道路の両側に連なった民家を、迫撃砲やミサイル、カミカゼ、バーバ・ヤーガによって破壊し尽くした。まともに建っている民家はなかった。死傷者も相次ぎ、15人が一度に死傷したこともあった。

僕らの部隊で残る兵士は、アフマット5人と国防省10人、そして国境警備隊の兵士たちだ。死傷者があまりにも多いから、無線報告も1時間に1度から30分に1度に変更された。これでは仮眠すらまともに取れない。さらに過酷な環境下に陥ったのだ。

経験豊富な兵士がおらず、アルメニア人とも連携が取れない現状を踏まえると、僕一人で戦うしかなかった。

破壊され焼失した家屋
写真=iStock.com/Sofiia Potanina
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40日間の移動で6人が殺された

40日間を僕は最前線で過ごした。5月9日は第二次世界大戦時のドイツに対する「戦勝記念日」である。プーチン大統領は前日の8日から3日間の停戦を表明したが、ウクライナ軍は応じなかった。

5月7日の夜11時半からバーバ・ヤーガが飛び回り、日付を越えた深夜0時半、普段通りに敵軍は攻めてきた。だが、9日の戦勝記念日を迎えると、無線で突然「村に戻れ」との指令が下った。

アフマットの拠点があるクルスクの村だ。相棒のアルメニア人には帰還命令はなく、僕だけへの通達だった。村に戻れば、脅威はバーバ・ヤーガの爆撃とカミカゼのみ。最前線の暮らしに比べれば天国のようなものだ。

危険なのは村まで帰る道中である。車両に乗っている間の道のりは常に攻撃に晒される。国防省とアフマットを合わせて、この道中だけで40日間に6人が亡くなっていた。負傷者はその倍だ。

戻る準備をしているときも、隣のアルメニア人はため息ばかり漏らしていた。僕の代わりに来る兵士が新兵だった場合、彼が先頭に立って戦うほかないからだ。

ベルゴロドで過ごした40日間は、精神的にも肉体的にも限界に近かった。前線で見たことについての僕の意見は、アフマット全体ではなく、あくまで僕が所属した中隊について述べたものだ。さまざまな意味で、ベルゴロドでの戦闘は特異だったと言わざるを得ない。