任務後に襲った腹痛、下痢、血便
畑はポツダム宣言受諾の御前会議に呼ばれ、受諾はやむを得ない、親衛隊を残せるよう交渉すべきだ、と昭和天皇に進言した人物。
A級戦犯(終身禁錮刑、後に赦免)として巣鴨プリズンに身柄があった1952(昭和27)年には「原爆乙女」の慰問を受け、「当時私は広島の陸軍の最高指揮官だった……私どもが広島にいたばかりに、みなさんをこういう目にあわせました」と頭を下げたという(中国新聞社・編『炎の日から20年』未來社、1966年)。
畑を含むA級戦犯10人が謹慎の意を込めて彼女たちに贈った寄せ書きの色紙が現存している。だが、こうした逸話によって畑を実直な人物だと評することができるのかどうかは僕には分からない。
誰が視察に来ようと、23大隊の隊員たちの多くは命を削るような眼前の任務に徹するしかなかった。疲れきった夜は東練兵場付近に張った天幕で寝たが、目を閉じても悲惨な光景が頭から離れない。風呂はなく飯にも手が出ない。
海風に乗って人や動物の腐乱した臭いが漂ってくる。昼は破裂した水道管の水を飲み、構内の貨車に積まれたニシンを焼いて食べた者もいた。放射能汚染という言葉など知る由もない。9日までの復旧作業を終えて川原石に帰ると、腹痛や下痢に悩まされ、粗末な便槽に血便が散っていた。
広島駅近くにわずかに残る戦時下の遺構
『広島原爆戦災誌』には「全焼した広島駅は、灼熱の炎に焼けただれ、余燼いまだ消えない翌々日の8日、陸海軍工作隊の出動によって、水を注ぎながら後片づけに着手した」と短い記述がある。8日には本線(山陽線)が開通し、9日には芸備線が開通した。
近年の東練兵場跡周辺は「エキキタ」などと呼ばれている。シリブカガシつまりドングリが群生する森である二葉山(標高139メートル)の山麓に、西から饒津神社、明星院、鶴羽根神社、広島東照宮、尾長天満宮、國前寺といった古い寺社が連なる風景は変わっていない。
だが、現在は寺社の間を縫うように山腹までマンションや一戸建て住宅が林立し、さらに西側の広大な旧官有地、JR所有地では大型再開発が進行中であり、都市高速のトンネルも地盤沈下などの問題をはらみながら異形を現している。
もし戦時下の名残をとどめるものを訪ねるなら、第二総軍のルーツである騎兵第五連隊の碑、陣没軍人軍馬追悼の碑、罹災者が湧き水を求めて息絶えた東照宮境内の原爆慰霊碑などを目にすることしかできない。




