爆風で向かいのホームまで吹き飛ばされる
広島駅は本館の前の「張りぼて」の出札室がつぶれ、多数の旅客が下敷きになった。駅長室のある別館は半壊、2階の車掌区はつぶれ、ホームにいた人たちは二線路隔てた向かい側ホームまで吹き飛ばされる。
各ホームの上屋はほとんどの柱が折れたり、ねじ曲げられたり、線路上に倒れたりしていた。それでも駅長木村英雄は血のにじんだ包帯を頭に巻いて部下を指揮し、刻々と集まってくる情報を取りまとめて部隊長(広島鉄道統監部)に第一報を送った。それが午前10時。駅長の指令によって列車の疎開や車両の転線などが実行されたという。
一方、二等水兵の棚橋又吉は駅頭で「曳火高性能爆弾」と書かれた張り紙を目撃し、流言飛語に惑わされず落ち着いて行動せよ、広島で見たことは話すと罰せられる――などと憲兵がメガホンで叫んでいたと証言する。
「新型爆弾」と呼んだ大本営発表より先に中国軍管区司令部が8月7日正午にこう発表し、張り紙や口伝えである程度広まったと見られる。旧制広島高校の学生の手記にも、広島駅北の大内越峠(現在は広島市東区山根町)を越え東練兵場に入ると「敵ハ広島市ニ曳火高性能爆弾ヲ投下セリ」の張り紙を見たという証言があるため、軍も衝撃を受けたことは間違いない。
陸軍元帥はなすすべもなかった
また、中国新聞校閲主任だった大下春男は原子爆弾を「閃光式新型爆弾」と言い換えるよう県警察部特高課長に命じられたとつづる(池田佑・編『大東亜戦史 9 国内編』富士書苑、1969年)。ただし、誰とはなしに口にした「ピカドン」は差し止められることなく、世間に広まったという。
同じ頃、陸軍元帥畑俊六の現場への視察に接して敬礼した、とつづるのは少尉候補生の本宮啓である。憔悴した表情で丁寧に答礼した畑の姿に「もう日本はだめなのか」と直感した。畑は本土決戦に備えて広島に設置された第二総軍の司令官として4月に着任したばかりだった。
あの日は東練兵場にほど近い二葉山山麓の公邸の室内にいて傷一つ負わなかったが、続々入る市中の惨状や陸軍高官の安否に関する情報になすすべもなかったことが「陸軍 畑俊六日誌」(『続・現代史資料 4』オンデマンド版、みすず書房、2004年)の「獄中手記」からうかがえる。
口語文にすると「司令部はとりあえず二葉山で掘削中の防空壕で事務を開始したが、今はただ茫然たる状態で誠に情けない次第である」という一節がそうだ。

