要塞のはずが、信長を閉じ込める“檻”に

冒頭の問いに戻ろう。信長は油断していたのか。答えはこうなる。信長は無防備だったのではない。出陣までの数日間、京都でしか片付かない宿題を処理するために、京都でもっとも守りの堅い一角を選んで滞在していた。判断としては、むしろ合理的ですらあった。ただし、その守りには一つだけ穴があった。堀も土塁も木戸も、外から来る敵を防ぐためのものである。一万三千の軍勢が「味方」の顔をして洛中に入ってくることまでは、想定されていなかった。

光秀は、百年かけて築かれた京都の防御網を、戦うことなく通過した。堀と土塁に囲まれた一角は、外敵を阻む要塞から、信長を閉じ込める檻に変わったのだ。

「是非に及ばず」という言葉は、絶望の叫びというより、正確な状況判断だったのかもしれない。守りの堅さを見込んで選んだ宿所である。その守りが敵の手に落ちた以上、もはや、あれこれ論じても仕方がない。信長は最後まで、合理の人だった。

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