城塞の中にあった本能寺
ここで注意したいのは、京都の惣構は町全体を一つの城壁で囲ったものではなかった、という点である。当時の京都は、御所や幕府関連の施設が集まる「上京」と、商工業者の町である「下京」という、二つの市街地に分かれていた。両者は室町小路一本でつながってはいるものの、間には田畑が広がる、いわば二つの都市である。
惣構も、上京と下京それぞれが別個に構えていた。とりわけ下京の惣構が鍛えられたのが、天文年間である。1532年からの数年間、京都の町政は法華宗の門徒たち、いわゆる法華一揆が主導していた。一向一揆や周辺勢力との緊張の中で、町人たちは自らの手で堀をつくり、土塁を築き、町を固めていく。
そして1536年、延暦寺の大軍が京都に攻め寄せた天文法華の乱で、この惣構は実戦を経験することになる。結果は法華宗側の敗北。下京は戦火を免れたものの、上京の大半と洛中の法華寺院21カ寺はことごとく焼け落ちた。冒頭で触れた、本能寺一度目の炎上である。そして1545年、焼け出された本能寺が再建の地に選んだのが、下京惣構の内側、四条西洞院の一角だった。つまり本能寺は、そもそもの立地からして、要塞都市の中に建てられた寺だったのである。
現在の京都といえば、京都駅を降りれば、高層ビルこそないものの、盆地いっぱいに市街地がひしめきあっている。そのため「戦国時代の京都」というと、うらぶれてはいるが町屋や崩れた屋敷が延々と連なっているような姿を想像してしまう。
それは、大きな間違いだ。戦国時代の京都は、盆地のほとんどを荒れ地や田畑がしめ、僅かに上京と下京の町が城塞のように守りを固めて存在していたのである。
発掘調査が示した“守りの堅さ”
この下京惣構と本能寺の実像は、2002年以降、旧本能小学校の跡地での発掘調査によって、下京惣構の濠が確認されたこともあり次第に明らかになってきている(『平成19年度 財団法人京都市埋蔵文化財研究所年報』)。
以降、断続的に続いている調査報告書では、興味深い指摘をしている。
ようするに、本能寺が建つ区画だけ、西洞院川が改修され、敷地が東へ拡幅された痕跡があるというのだ。本能寺は、惣構の内側という好立地にただ入居しただけではない。移転にあたって川筋にまで手を入れ、土地そのものを作り変えていた可能性がある。
こうしてみると、本能寺がかなり堅い守りの中にあったことは明らかだろう。惣構という都市ぐるみの防御に、川と堀と土塁。しかも河内氏によれば、当時の京都では夜になると街路が木戸で閉ざされ、町自体も、時には武士を追い返す程度の武力を備えていた。信長が小姓衆だけで滞在するのに、これほど適した場所はなかったといえる。

