本能寺にあった塀や堀、町そのものが巨大な要塞

そんな問題を解決する際の宿泊所として、本能寺を選択したのは正しかったのか。

結果的には光秀に攻められてしまったことを知っている我々は、それが間違いだったとも考えてしまう。しかし、最高権力者としての信長が滞在する施設として本能寺は最適ともいえる施設だった。

まずは、その防御力の高さである。最近では、本能寺が塀や堀などの防御機能を備えていたことが明らかになっている。しかし、それは京都の街中に、ちょっとした城のような施設がぽつんとあった、という話ではない。この時代、京都の町そのものが巨大な要塞になっていた。本能寺は、そんな城塞都市の中に存在していたのだ。

そもそも、京都の人々が敵から身を守るために街中に堀をめぐらすことは、応仁の乱の初期から始まっていた。

河内将芳『信長が見た戦国京都 城塞に囲まれた異貌の都』(洋泉社、2010年。のち法藏館文庫)は、当時の日記類を基に、戦火から我が身と財産を守るため、権力者や町人たちの手によって、京都のあちこちに堀が掘られていったことを明らかにしている。中でも河内氏が紹介する『皇年代私記』の記述によれば、一条大路の東西両陣のあいだに掘られた堀溝は「口二丈、深さ一丈」。つまり、現在も京都市内を走る一条通に、幅約6メートル、深さ約3メートルの堀が横たわっていたというわけである。

本能寺跡碑
本能寺跡碑(写真=Saigen Jiro/CC0/Wikimedia Commons

戦国時代に求められた“防御”

応仁の乱が終結すると、こうした堀は埋め戻され、旧来の条坊制に基づいた都市の復興が図られることになった。しかし、幕府や朝廷の思惑通りに、ことは進まなかった。治安は極度に悪化し、あちこちに強盗が出没する。大火も頻発し、乱の被害が少なかった地域まで焼け落ちてしまう始末。さらに、1493年の明応の政変以降は、軍勢が京都へ乱入することが常態化していく。

そうなれば、必要とされるのは防御である。河内氏は、『後法興院記』に「要害として京中堀、京兆より下知を加うとうんぬん」……管領・細川政元が「要害」として京中に堀を掘るよう命じた、とあることを基に、この時期、京都に再び堀が掘られるようになったことを指摘している。

こうして造られたのが「惣構」と呼ばれる防御施設である。これは、堀や柵を張り巡らして、町や村をすっかり囲んでしまうというものである。それが、戦国時代の京都の町に存在していたのである。

河内氏は、その様子がもっともわかりやすい史料として『上杉本洛中洛外図屏風』を挙げる。

右隻第4扇の下部に本能寺が描かれている。『上杉本洛中洛外図屏風』狩野永徳・筆
右隻第4扇の下部に本能寺が描かれている。『上杉本洛中洛外図屏風』狩野永徳・筆〔写真=ブレイズマン/PD-Art (PD-Japan)/Wikimedia Commons
四条坊門西洞院(四条坊門小路と西洞院大路の交差したところ)あたりを見てみると、西洞院側を自然の堀として利用しながら、西洞院大路の東側に土塀が長く四条坊門小路まで続いていたことがわかる。しかもその土塀には、三条大路と四条坊門小路に木戸門、または六角小路に櫓門が備えられていたことも見て取れる。